「グループA」で圧倒的速さを魅せたGT-Rの存在
1985~1993年に開催されていた「全日本ツーリングカー選手権」は通称「グループA」と呼ばれている。現在40代後半から50代のクルマ好きにとって、鮮明な記憶として残る伝説のレースと言っても過言ではないだろう。中でも1990年にデビューしたR32スカイラインGT-Rの印象は強烈だった。そして参戦するGT-Rの中でとくに人気を博していたのが星野一義氏がドライブする「カルソニックスカイライン」だった。
今なお語り継がれるグループA伝説。終焉から四半世紀が過ぎた2017年、ある意味で「本物」と言われる3台のカルソニックスカイラインが集結した。奇跡のショットとそれぞれのヒストリーについて紹介したい。
作り手も乗り手も熱さを持っていたグループAのR32GT-R
1989、R32スカイラインGT-Rは衝撃と共にデビューした。いわゆる「チューニング業界」と呼ばれる世界では、R32の誕生前後でクルマ作りが変わったと言われており、ここからカスタマイズが飛躍的に進化を遂げた。
いわば結果論ではあるが、R32スカイラインGT-Rなくしてチューニング史は語れないというのは紛れもない事実なのである。
R32スカイラインGT-Rは「グループAで勝つため」に生まれてきたクルマだ。それまでR31スカイラインではフォード・シエラの後塵を拝し、かつてハコスカで見せたようなレースでの圧倒的速さは影を潜めていた。市販車としてもトヨタに押され気味だった日産は、R32スカイラインGT-Rによって、市販車でもレースでも完膚なきまでにライバルを打ち負かす必要があったのだ。
デビュー戦から負け知らずの伝説マシン
そして市販車デビューから1年。1990年にR32スカイラインGT-RはグループAデビューを果たす。結果は前戦ポールポジション・優勝という完全制覇を遂げた。いわゆる「黒船」であったフォード・シエラとはクラス違いを思わせる速さを見せた。シリーズチャンピオンはカルソニックスカイラインを駆る星野一義氏である。
1991年にはライバル車の参戦がなくなり、GT-Rが参戦するクラス1はワンメイク状態となる。1992年にはGT-Rだけで7台がエントリーし、激しいバトルを見せた。そしてグループA最後の年となる1993年は、富士スピードウェイで開催された最終戦「インターテック」で9万4600人を動員するという記録を樹立。スタート時、1コーナーに入る前にすでに他クラスと大きく差を付けた走りは、ファンを魅了し続けた。
こうしてGT-R人気を生んだグループA車両の中でも鮮烈なブルーを纏った「カルソニックスカイライン」は別格の人気を誇っていた。速さはもちろんのこと、星野一義氏の縁石に乗り上げてのダイナミックな「片輪走法」は見る者を興奮させた。コーナーを駆け抜けるというよりも、飛び越えるかのようなスタイルは、ヤンチャでカッコよかったのだ。
現存する3台の「カルソニックスカイライン」
あらゆる意味で衝撃だった「グループA」と「カルソニックスカイライン」が、四半世紀以上経った今でも現存している。
噂ではグループAのカルソニックスカイラインは3台製作製作されたと言われている。1台は1993年シーズン途中に製作したマシン。これは翌年の全日本GT選手権に向け、GTマシンとして作り替えられたので、すでにこの世に残ってはいない。もう1台は行方知れず。そして、ここで紹介している参戦初年度の90年モデルだ。
90年モデルはグループA終了後、他レースに参戦したため一部仕様変更されている部分はあるが、骨格、サスペンションまわり、ロールケージなどはまぎれもなくグループAマシンである。
現状はグループA終了後、プライベーターとして一時期JGTCに出場したこともあり、ドアは軽量化のためドライカーボン製に交換されている。また、JGTCのワイドなタイヤを履くため、フロントバンパーの一部をカット。アンダーディフューザーを装着していたため、リヤバンパーも加工された。また、グループAエンジンはREINIK(日産工機)からのレンタルだったこともあり、エンジンは無しの状態で、RB26DETTを載せ換えた状態となっている。
とはいえ、グループA参戦初年度のマシンが基本骨格はそのままに残されていたのは、まさに奇跡というほかない。