アフリカの草原に稲妻的衝撃の「三菱ランサーと建次郎」
70年代初頭に起きたオイルショックやカリフォルニアの大気汚染に端を発した全世界的な排気ガス規制に対応するために、1973年の優勝を最後にサファリ・ラリーへの参戦を一旦休止した日産。代わってサファリ・ラリーへの挑戦を開始した国内メーカーが三菱でした。前年にランサー1600GSRを投入し、サザンクロス・ラリーでアンドリュー・コーワンが2連覇を果たすとともに総合で1-2-3-4を独占した三菱が、その余勢をかって翌1974年からサファリ・ラリーに挑戦を始めたのです。
1953年から開催され続けていたサファリ・ラリーは、1970年から制定された世界ラリー選手権(WRC)においても当初からシリーズの1戦となっていました。ただし当時のWRCは現在と異なり、レギュラー参戦が義務付けられているものではなく、スポット参戦も可能でした。そこで三菱は一転集中する格好で年に1度の檜舞台、サファリ・ラリーへの参戦を決めたのです。
前年にサザンクロスを圧勝したランサー1600GSRのパフォーマンスも見事でしたが、三菱が契約していたドライバーのジョギンダ・シンが凄い人物でした。WRCをレギュラーとして戦うトップドライバーとは違い、ケニア在住のローカルドライバーでしかなかったシンですが、35歳だった1965年にボルボを駆ってサファリ・ラリーで優勝したキャリアを持っていたのです。実際に1974年の競技でもポルシェ911のビョルン・ワルデガルドやランチア・フラビア1.6HFのサンドロ・ムナーリを相手に互角以上の速さを見せ、最終的にワルデガルドに28分、ムナーリには1時間以上の大差をつけてゴールしています。そして彼自身2度目のサファリ・ラリー制覇を果たすとともにWRCでの初優勝を飾り、三菱にもWRCでのデビューウィンをもたらすことになったのです。
2年後の1976年にもシンはランサー1600GSRでサファリ・ラリーを制し、サファリ・マイスターとしてのパフォーマンスを見せつけていました。同時にランサー1600GSRは総合で1~3位を独占。若き20代であった日本のドライバー「ライトニング・ケンジロウ」こと篠塚建次郎もこの年6位入賞。サザンクロスに続いて“ラリーの三菱”をアピールすることになりました。
そして翌1977年、三菱ワークスはアイボリーコースト(仏:コート・ジボワール)で開催されていたバンダマ・ラリー(正確にはこの年から国名を冠したラリー・バンダマ・コート・ジボワールと呼ばれるようになった)でA.コーワンとJ.シンが1-2フィニッシュを飾って、一時小休止となった三菱の海外ラリー挑戦に花を添えることになりました。
サファリで打ち立てた「4WDといえばスバル」
一方、小排気量の競技車両ながら、山椒は小粒で……とばかりに活躍したクルマ/メーカーもありました。それがSUBARUとダイハツでした。SUBARU(当時は富士重工業)のサファリ初チャレンジは1980年でした。競技車両は前年に登場した2代目レオーネの3ドアハッチバック。SUBARUでは“スイングバック”と呼んでいましたが、セダンに比べると前後のオーバーハングを切り落とし、ホイールベースも詰めたパッケージとなっていました。
何よりも特徴的だったのはSUBARUのお家芸だった4輪駆動システムを組み込んでいたこと。そして1980年のサファリ・ラリーにデビューすると、これがWRCで初の4輪駆動車となり、アウディに先んじることになりました。競技ではスバル使いとして内外のラリーで活躍していた平林武選手が見事総合18位で完走し、グループ1でのクラス優勝を果たしたのです。
以後も少数精鋭での参加を続け、1983年にはレオーネRX 4WDのグループA仕様をデビューさせましたが、高岡祥郎/砂原茂男組がクラス優勝を果たすとともに、総合でもグループB仕様のワークスカー4台に次ぐ5位に入賞。これは当時、WRCにおける日本人のベストリザルトとなりました。また1990年にはレガシィRSがデビューし、P.ジルが駆ったグループN仕様のレガシィRSが完走を果たしています。これはグループN車両としてはサファリ・ラリーにおける初完走となりました。
もうひとつ忘れてならないのは1993年のヴィヴィオRX-RAの活躍でしょう。日本固有の軽自動車であるヴィヴィオはもちろんエンジン排気量が660㏄で、おそらくはサファリ・ラリー史上最小排気量の競技車両でしたがコリン・マクレーとパトリック・ジル、そして石田正史の3選手に託されました。3人の中でマクレーとジルに下された“作戦”が好対照でした。“マックラッシュ(壊し屋マクレー)”と揶揄されるほどクラッシュも多かったけれど、速さがズバ抜けていたマクレーに対しては「とにかく速く走れ!」。そして地元ケニア在住でベテランのジルに対しては「絶対に完走しろ!」でした。
この極端な作戦が奏功します。マクレーは、リタイアするまでは驚くべき速さを見せ、何と総合優勝を争うセリカの間に割って入るほどでしたが、予定通り(?)リタイア。頑張っていた石田選手も3日目にオーバーヒートからリタイアしてしまいます。一方、ジルは着実に走行を続けて見事完走。A5クラスで優勝しただけでなく総合でも15位に入る活躍でした。