自動車メーカーがこぞって向かった悪路のサファリ・ラリー
サザンクロス・ラリーに代わり、日本の自動車メーカーが注目した海外ラリーは、“灼熱の大地”として知られるアフリカ大陸を舞台に長距離を走破するサファリ・ラリーでした。国内メーカーでパイオニアとなった日産が初めてサファリ・ラリーに挑戦したのは1963年のこと。
日産が怒涛の4連勝を飾ってサザンクロス・ラリーの長い歴史に幕を下ろしたのは1980年のことでしたから、サザンクロス・ラリーに“代わって”サファリ・ラリーに挑戦を始めた、というと少しばかり語弊が生じて来るかもしれません。閑話休題。世界中を沸かせたサファリ・ラリーでの、世界に誇れるクルマを目指した日本メーカーの足跡を振り返りましょう。
世界三大ラリーのひとつ 艱難辛苦なルートコンディション
国内メーカーの活躍を紹介する前に、サファリ・ラリーそのものの歴史についても触れておきましょう。第1回目の大会が開催されたのは1953年。当時はまだイギリスの植民地だった東アフリカの国々において、エリザベス2世(現在のエリザベス女王)の即位を記念して開催されたものでした。世界自動車連盟(FIA)によって世界ラリー選手権(WRC)が制定されたのは1970年のことでしたから、それよりも15年前から行われてきたクラシックイベントで、1911年に第1回大会が開催されているラリー・モンテカルロや1932年に初開催されたRACラリー(現在のウェールズ・ラリーGB)とともに世界三大ラリーと呼ばれることになりました。
サファリ・ラリーの最大の特徴は、スタートしてからゴールするまでの総走行距離が長いこと。他のWRCイベントが1000~1500㎞であるのに対してサファリ・ラリーでは5000㎞を走破したこともありました。灼熱の大地=サバンナを舞台とするサファリ・ラリーは復活祭に合わせて3月から4月にかけて開催されています。これがちょうど乾期から雨期に替わる時期で、乾期ならば未舗装路は固く乾いていて舞い上がる土埃が酷く、反対に雨期に入ると雨によってコースが泥濘化してしまい、川渡りでスタックするクルマも続出してしまうほどでした。そのためにカーブレイカー(クルマの壊し屋)ラリーとも呼ばれていましたが、発展途上だった国産車を鍛えるためには絶好の機会となると考えた国内メーカーがこぞって参戦するようになっったのです。
「ラリーの日産」と言わしめた時代
最初に触れたように、国内メーカーで最初にサファリ・ラリーに挑戦したのは日産でした。第1回目の挑戦となった1963年は、参戦車両には2台ずつの初代ダットサン・ブルーバード(P312)と初代日産セドリック(G31)を使用。ドライバーは実験部に所属していた難波靖治さん(後に日産ワークスのラリー監督を務め、さらにNISMOの初代社長となる)ら社員ドライバーが担当する、家内工業的なチーム体制でした。
この時は残念ながら完走することはできませんでしたが、翌年からはブルーバードが2代目の410系に移行。ハイパワーバージョンの1300SS(P411)を投入した3年後には、J.グリンリー組が総合5位で完走を果たすとともに、見事クラス優勝を飾っています。
この時の監督を務めた実験部の笠原剛三部長がその活動記録として纏めた本『栄光への5000キロ-東アフリカ・サファリ・ラリー優勝記録(荒地出版刊)』がベストセラーとなりました。それを映画化した『栄光への5000キロ』は石原裕次郎と浅丘ルリ子のコンビが主演し、石原プロモーションが製作、松竹映画が配給元となりましたが、原作の書籍と同様にこちらも大ヒット。その結果として『サファリ・ラリー』の名が、モータースポーツファンならずとも日本全国津々浦々広く知れ渡ることになりました。
以後も日産の活躍は続きました。初のクラス優勝を飾った1966年の2年後には3代目ブルーバードに新たに設定された1600㏄のトップモデル、ブルーバード1600SSS(P510)を投入。初年度はリタイアに終わりましたが2年後の1970年には3台体制で臨み、E.ヘルマン組が総合優勝を飾ったほか、他の2台も2位と4位に入り、クラス優勝とチーム優勝も飾ることになり、堂々の3冠を達成しています。
翌1971年には急遽ルートが変更され、それまで以上に高速ルートが増えることになりました。これを日産(ブルーバード)潰しとする説もありましたが、日産は、前年に総合優勝を飾ったブルーバード1600SSSから日産フェアレディ240Z(HS30。輸出名はダットサン240Z)に主戦車両を変更。直4の1.6ℓと直6の2.4ℓという違いはあるものの、同じL系エンジンということでチューニングパーツも多く流用できたことから、当初から高いパフォーマンスを見せつけることができました。E.ヘルマン組が2年連続優勝を飾るとともに、他の2台も2位と7位に入り、2年連続で三冠に輝くことになったのです。
翌1972年はフォード・エスコートRSに勝利を奪われ総合5位がベストリザルトとなりましたが、その翌年、1973年にはシェッカー・メッタのドライブで王座を奪回しています。
この年を限りに日産ワークスとしてのサファリ・チャレンジは一旦休止してしまいました。しかしワークスカーを貸与されたプライベーターが毎年のように優勝争いを繰り広げ、1979年にワークスが復帰するといきなり総合優勝。そして1982年まで4連勝を飾り、旧車両規定で戦われた時代のサファリ・マイスターとして名を馳せています。
アフリカの草原に稲妻的衝撃の「三菱ランサーと建次郎」
70年代初頭に起きたオイルショックやカリフォルニアの大気汚染に端を発した全世界的な排気ガス規制に対応するために、1973年の優勝を最後にサファリ・ラリーへの参戦を一旦休止した日産。代わってサファリ・ラリーへの挑戦を開始した国内メーカーが三菱でした。前年にランサー1600GSRを投入し、サザンクロス・ラリーでアンドリュー・コーワンが2連覇を果たすとともに総合で1-2-3-4を独占した三菱が、その余勢をかって翌1974年からサファリ・ラリーに挑戦を始めたのです。
1953年から開催され続けていたサファリ・ラリーは、1970年から制定された世界ラリー選手権(WRC)においても当初からシリーズの1戦となっていました。ただし当時のWRCは現在と異なり、レギュラー参戦が義務付けられているものではなく、スポット参戦も可能でした。そこで三菱は一転集中する格好で年に1度の檜舞台、サファリ・ラリーへの参戦を決めたのです。
前年にサザンクロスを圧勝したランサー1600GSRのパフォーマンスも見事でしたが、三菱が契約していたドライバーのジョギンダ・シンが凄い人物でした。WRCをレギュラーとして戦うトップドライバーとは違い、ケニア在住のローカルドライバーでしかなかったシンですが、35歳だった1965年にボルボを駆ってサファリ・ラリーで優勝したキャリアを持っていたのです。実際に1974年の競技でもポルシェ911のビョルン・ワルデガルドやランチア・フラビア1.6HFのサンドロ・ムナーリを相手に互角以上の速さを見せ、最終的にワルデガルドに28分、ムナーリには1時間以上の大差をつけてゴールしています。そして彼自身2度目のサファリ・ラリー制覇を果たすとともにWRCでの初優勝を飾り、三菱にもWRCでのデビューウィンをもたらすことになったのです。
2年後の1976年にもシンはランサー1600GSRでサファリ・ラリーを制し、サファリ・マイスターとしてのパフォーマンスを見せつけていました。同時にランサー1600GSRは総合で1~3位を独占。若き20代であった日本のドライバー「ライトニング・ケンジロウ」こと篠塚建次郎もこの年6位入賞。サザンクロスに続いて“ラリーの三菱”をアピールすることになりました。
そして翌1977年、三菱ワークスはアイボリーコースト(仏:コート・ジボワール)で開催されていたバンダマ・ラリー(正確にはこの年から国名を冠したラリー・バンダマ・コート・ジボワールと呼ばれるようになった)でA.コーワンとJ.シンが1-2フィニッシュを飾って、一時小休止となった三菱の海外ラリー挑戦に花を添えることになりました。
サファリで打ち立てた「4WDといえばスバル」
一方、小排気量の競技車両ながら、山椒は小粒で……とばかりに活躍したクルマ/メーカーもありました。それがSUBARUとダイハツでした。SUBARU(当時は富士重工業)のサファリ初チャレンジは1980年でした。競技車両は前年に登場した2代目レオーネの3ドアハッチバック。SUBARUでは“スイングバック”と呼んでいましたが、セダンに比べると前後のオーバーハングを切り落とし、ホイールベースも詰めたパッケージとなっていました。
何よりも特徴的だったのはSUBARUのお家芸だった4輪駆動システムを組み込んでいたこと。そして1980年のサファリ・ラリーにデビューすると、これがWRCで初の4輪駆動車となり、アウディに先んじることになりました。競技ではスバル使いとして内外のラリーで活躍していた平林武選手が見事総合18位で完走し、グループ1でのクラス優勝を果たしたのです。
以後も少数精鋭での参加を続け、1983年にはレオーネRX 4WDのグループA仕様をデビューさせましたが、高岡祥郎/砂原茂男組がクラス優勝を果たすとともに、総合でもグループB仕様のワークスカー4台に次ぐ5位に入賞。これは当時、WRCにおける日本人のベストリザルトとなりました。また1990年にはレガシィRSがデビューし、P.ジルが駆ったグループN仕様のレガシィRSが完走を果たしています。これはグループN車両としてはサファリ・ラリーにおける初完走となりました。
もうひとつ忘れてならないのは1993年のヴィヴィオRX-RAの活躍でしょう。日本固有の軽自動車であるヴィヴィオはもちろんエンジン排気量が660㏄で、おそらくはサファリ・ラリー史上最小排気量の競技車両でしたがコリン・マクレーとパトリック・ジル、そして石田正史の3選手に託されました。3人の中でマクレーとジルに下された“作戦”が好対照でした。“マックラッシュ(壊し屋マクレー)”と揶揄されるほどクラッシュも多かったけれど、速さがズバ抜けていたマクレーに対しては「とにかく速く走れ!」。そして地元ケニア在住でベテランのジルに対しては「絶対に完走しろ!」でした。
この極端な作戦が奏功します。マクレーは、リタイアするまでは驚くべき速さを見せ、何と総合優勝を争うセリカの間に割って入るほどでしたが、予定通り(?)リタイア。頑張っていた石田選手も3日目にオーバーヒートからリタイアしてしまいます。一方、ジルは着実に走行を続けて見事完走。A5クラスで優勝しただけでなく総合でも15位に入る活躍でした。
頑強コンパクト「ダイハツ・シャレード」はサファリの野生味
一方、一貫してコンパクトカーで海外ラリーを戦ったのがダイハツでした。1979年のモンテカルロで国際ラリーへのチャレンジを始めたダイハツは、1984年に活動の場をサファリへとシフトしています。
モンテカルロはシャレードの初代モデル(G10系)のグループ2仕様が使用されていましたが、サファリへのチャレンジでは2代目(G11系)に進化していました。当初は排気量が993㏄のエンジンにターボを装着したグループA仕様でしたが、ターボ係数をかけると1300㏄を超えてしまい、本来のクラスよりも1クラス上に編入してしまいます。そこでダイハツは1985年に向けては排気量を926㏄にスケールダウンしたエンジンを開発。これだとターボ係数の1.4を掛けても1300㏄以下に収まり本来のクラスに戻ります。ただし、グループAだと多くの台数を生産する必要が出てくるので、200台のみ限定生産し、グループBとしてホモロゲーション(車両公認)を取っての参戦となりました。
さらに1988年からは3代目(G100系)にスイッチし、1LターボのGTIと1.3L NAの1.3iを投入しています。大排気量車に交じって奮闘していたシャレードは、何度もクラス優勝を飾っていますが、最大のハイライトは1993年の第41回大会でした。この年のサファリは、トヨタワークスのセリカが総合1-2-3-4位を独占。また先に紹介したようにSUBARUの軽自動車ヴィヴィオが完走して総合15位/A5クラス優勝を果たしたことでも知られています。しかし4台のワークス・セリカの後方で、1LターボのシャレードGTIが総合5-6-7位に続いていました。まさに日本車のためのサファリ・ラリーとなったのです。
FR最高位を高速ラフロードで立証したトヨタ・セリカ
早くからヨーロッパのラリーに挑戦を開始し、シリーズが制定された1970年にはスポット参戦ながらWRCデビューを果たしていたトヨタですが、サファリ・ラリーへの挑戦を開始したのは意外に遅く、1984年の第32回大会が初参戦となっています。
70年代中盤にはWRCへ準レギュラーとして参戦を果たしていたトヨタ。サファリ・ラリーへの挑戦も、WRCシリーズ中の1戦としての参戦というイメージもありましたが、実はある意味苦肉の策でもありました。というのは80年代序盤からWRCにおいては4輪駆動が勢力を伸ばしてきていて、トヨタが投入していたFRのセリカではもう太刀打ちできないところまで来つつあったのです。
ただしひとつだけ例外があって、それがサファリ・ラリーとアイボリーコースト・ラリー、灼熱の大地を駆け抜けるアフリカ・ラウンドの2戦だったのです。1982年のアイボリーコーストでその手応えをつかんだトヨタは、4輪駆動の次期主戦マシンを開発し、それが熟成するまでの間、FRのセリカでアフリカ・ラウンドを勝ち抜くという、彼ら独自の作戦を立てました。
それはある意味で、4輪駆動のアウディのグラベルの速さに手を焼いたランチアが、ミッドシップの後輪駆動の優位性を生かしてターマックで全勝し、グラベルでは何とかアウディに離されずに頑張ってシリーズを戦おうとしていたのに似ていたのかもしれません。ともかく、そうして誕生した競技車両がセリカのツインカム・ターボ(TCターボ:型式はTA64)でした。そしてその目論見通り、サファリ初参戦となった1984年の大会ではライバルを一蹴してデビュー・ウィンを飾っています。
数あるWRCシリーズの中でも、最も特徴的だったサファリ・ラリーでしたが、次第にその特徴は薄れて行ってしまいます。そして90年代になると「年に一度のサファリ詣で」的なところも薄れていき、シリーズ中の1戦で、グループAのワークスカーによるバトル、という色合いが濃くなっていきました。もちろん、それはそれで興味深いものがありますが、国内メーカーの海外挑戦、といった視点とは少し異なってくるので、こちらについてはまた機会を改めて紹介することにしましょう。