ラリーで歴史を刻んだ名車たち
ラリーで活躍した日本車というと、どんなクルマが思い浮かぶだろうか。最近ならトヨタのGRヤリス、少し前なら三菱のランサーエボリューションとスバルのインプレッサ。それにトヨタのセリカといったところか。しかし、1980年代までは「ラリーの日産」と言われるほど、日本でラリーに力を入れているメーカーといえば日産だった。
そうした「ラリーの日産」時代を彩ったラリーカーを振り返ってみよう。
ブルーバード510
日産自動車が初めて参加した国際ラリーは、1958年の第6回豪州ラリー。オーストラリア大陸を一周(1万6000km)する過酷なラリーで、ダットサン210型がクラス優勝。そして1963年からはサファリラリーに挑戦。初年度はブルーバード1200(P312)で、のちにNISMOの初代社長になる難波靖治がドライバーとして参戦(リタイア)した。
初優勝(総合優勝)したのは、1970年のサファリラリーで、マシンはブルーバード1600SSS(P510)だった。じつはその前の1966年、ブルーバード411が日本車として初めてサファリラリーでクラス優勝している。この年(1966年)のサファリでは、悪天候のため完走したのはわずか9台!
ちなみに、サファリラリーでの日産の奮闘ぶりは、石原裕次郎主演の映画「栄光への5000キロ」にもなり、大ヒットとなった。
フェアレディ240Z
そうして活躍したブルーバードの後継車に選ばれたのは、1969年にデビューしたフェアレディZ(S30)。エンジンは510ブルーバードで実績のあったL16(直列4気筒)と同じボア・ストロークの直6エンジン=L24(2400cc)を搭載。3基のソレックスキャブなどでチューニングされ、初期から200psのパワーがあり、最終的には250psまでパワーアップを果たしている。
国際的なラリーでは1970年のRACラリーでデビュー(10位)。1971年のモンテカルロラリーで5位になり、同年初めてのサファリラリーで優勝。ポルシェ911、フォード・エスコートなど強力なライバルを抑えてのサファリ制覇だった。
翌1972年はモンテカルロで総合3位。ドライバーはアルトーネンで、コ・ドライバーはF1でシューマッハがフェラーリに黄金期をもたらした際、同チームの監督だったジャン・トッド(現FIA会長)だった。
ちなみにラリーの世界選手権、WRCがはじまったのは1973年から。この年、日産は240Zでサファリラリーに出場し総合優勝している。また、日本車ではじめてWRCを制したマシンとして記録されている。
バイオレット
「ラリーの日産」として不動の地位を確立したのは、初代バイオレット(710)と二代目バイオレット(PA10)。710バイオレットはその型式が示すとおり、ブルーバードの兄弟車だった(エンジンはL型の4気筒。サスペンションはフロント:ストラット、リヤ:セミトレーリングアーム)。
710バイオレットは、1977年のサファリラリーで2位、1978年にもサファリとアクロポリスで3位に入賞。1977年にPA10バイオレットにフルモデルチェンジとなり、1978年からはPA10バイオレットでサファリに挑戦。そして1979年から1982年にかけて、サファリ史上初の4年連続総合優勝を達成している。
1981と1982年のマシンには、L型エンジンにDOHC・16バルブのヘッドを組み合わせた、LZ20Bエンジンを搭載(ドライサンプ)。このLZ20Bにターボがプラスされたエンジンが、トミカスカイラインターボ(R30)などの日産のシルエットフォーミュラのパワーユニットになったのは有名な話だ。
240RS
1983年からWRCの主役はグループBカーの時代になる。それに合わせて日産もS110シルビアベースのグループBカー「240RS」を投入。
エンジンはLZ20Bから2.4LのFJ24に進化し、280psのハイパワーを誇ったが、ライバルのアウディは、4WDのクアトロを投入。名門ランチアも037ラリーで参戦し、FRの240RSは苦戦が続いた……。
最高位は1983年のラリー・ニュージーランドの2位で、未勝利で終わってしまったが、ワークス以外のプライベーターの多くが240RSで参戦。その後、1987年からグループAのシルビア200SXにバトンタッチし、1988年のサファリで総合2位・クラス優勝している。1991年からパルサーGTI-RでWRCに参戦するが最高位は3位で、WRCでのワークス活動を撤退した。