この記事をまとめると
■スカイラインと並ぶ人気車種
■有名芸能人も愛車にしている
■2002年に惜しまれつつも生産終了
世界基準の高性能が与えられた日本初のハイオーナーカー
地中海沿岸部に生育し、古代ギリシャ時代から勝利や達成の象徴とされてきた月桂樹の名前が与えられた、日産のアッパーミドルサルーン(死語?)である「ローレル」。販売中止から約20年。お笑いタレントである「バッドボーイズ」佐田氏の愛車(2代目ブタケツ)が話題に上る程度で、その名を聞く機会はめっきり減った。
ただ、初代は世界を見据えた崇高な作り込みがされた日本初のハイオーナーカーとして、6~8代目は生産終了後にドリフト競技のベース車両として人気を博した。今回はその歴史を振り返りたい。
日産生まれなのにプリンス育ち! 運命にもて遊ばれた初代
初代(C30)がデビューしたのは1968年4月。立ち位置はブルーバードとセドリックの間を埋めるものであったが、タクシー仕様や商用車を設定しないことで高級パーソナルセダンとしてイメージを強調した。直線基調のスクエアなスタイリングは当時日本で人気が高かったアメ車ではなく、BMW2002など欧州車テイストのデザインだ。
足まわりもフロントがストラット、リヤがセミトレ―リングアームの独立縣架を採用。ステアリング形式は当時としては珍しいラック&ピニオン式で、クロスフローの1800㏄エンジンを搭載するなど、その先進性は名車と呼ばれた510型ブルーバードよりも上。かなり抜きん出た高性能車であった。
ただ、ローレルにとって不幸だったのは開発途中に起こった日産自動車とプリンス自動車の合併(1966年)。その影響で日産で開発されたローレルの生産がプリンスの主工場であった村山となり、エンジンもプリンス謹製のG18型が搭載されるなど、開発当初の計画とは大きく方向転換した。
販売低迷によりスカイラインと兄弟車になりプリンスへ完全移籍
さらにスカイラインとローレルはサイズが近似。1960年代後半~1970年代前半はパーソナル性よりも、スポーツ性がクルマの販売に大きく貢献した時代であったこともあり、レースで活躍したスカイラインのほうが人気は高く、ローレルはやや陰に隠れた存在になってしまった。合併がなければ日産で独自のポジションを確立できたはずだが出鼻をくじかれたわけだ。そのため、現在は中古車市場にほぼタマが残っていない。
さらに追い打ちをかけたのが、同年9月にトヨタからコロナ・マークIIが登場したこと。デザインだけでなく、ボディ形状やエンジン、グレードに至るまでシンプルな構成だったローレルに対して、真逆といえるワイドバリエーションを展開。それがユーザーのハートをガッチリと掴みマーケットを席捲。これに対して、ローレルも2Lエンジンと日産車初の2ドアハードトップで対応するも時すでに遅し。販売は伸び悩んだ。これにより、2代目以降は基本設計をスカイラインと共用化。本家の日産から分家の旧プリンス陣営へ完全移籍となる。
「ブタケツ」や「ガメラ」の愛称で呼ばれ生産終了後も人気が急上昇!
2代目(C130)が登場したのは1972年。基本コンポーネンツを5カ月後にデビューする3代目「ケン&メリー」スカイラインと共用し大型化した。エンジンも待望の6気筒(L20型)を搭載。後期にはスカイラインには設定されなかった3ナンバーのL26型&L28型をラインアップに加えるなど、ハイオーナーカーに相応しいゆとりある走りが魅力だった。
アメリカンスポーツがモチーフとなったデザインもケンメリと共通性があり、まさに兄弟車という雰囲気で両車とも人気は高かった。2ドアハードトップと4ドアセダンの2本立てなのは初代と同じ。前者は「ブタケツ」、後者は「ガメラ」という愛称で呼ばれた。ケンメリよりもタイヤハウスが深く、より太いホイールが履けたこともあり、街道レーサーのベース車として息の長い人気を誇った。現在も歴代で一番人気が高く、セダンで250万円~、2ドアになると350万円~というのが相場となっている。
4代目は「スカイラインの父」桜井眞一郎氏が開発責任者に着任
3代目(C230)は排ガス対応がひと段落した1977年にデビューした。アメリカンなゴージャス路線はさらにグレードアップする形で踏襲。ボディは2ドアハードトップと4ドアセダンに加えて、流行の兆しがあったピラーレスの4ドアハードトップが登場する。
後期型ではディーゼルを追加するなど、マークIIに負けないワイドバリエーション化を誇った。販売期間は3年と短かったが31万台を売上。1年間の平均販売台数としては歴代1位である。3代目も中古車相場が高騰しており、程度のよい個体は300万円に迫っている。
1980年11月に登場した4代目(C31)は開発責任者にスカイラインの父こと櫻井眞一郎氏が着任。アメリカン基調のスタイルから、初代を彷彿させるクリーンかつ欧州風味なデザインに方向転換した。空力性能を重視したスラントノーズを採用したスタイリングは、同時期にデビューした6代目スカイライン(R30)と共通性が見られる。
ボディは4ドアのセダンとハードトップの2本立てに変更。エンジンはL20ターボとLD28ディーゼルが加わり、さらなる高性能を実現した。ちなみに4代目以降は一部の高性能モデル除けば現在ほとんど100万円以下と同年代のスカイラインより相場は低く狙い目かも。
5代目は装備が充実した歴代最も豪華絢爛なハイオーナーカー
1984年に市場投入された5代目(C32)は「ビバリーヒルズの共感」というキャッチフレーズとともに再び押しが強く、キラキラなアメリカン路線に回帰。デザインはレトロ調だがエンジンはL20型に代わる直6であるRB20EとV6のVG20ターボの新世代コンビに、キャリーオーバーとなる直4のCA18SとLD28ディーゼルを加えた4種類が用意された。
足まわりは初代から変わらずフロントストラット&セミトレだが、初代以来のラック&ピニオン式ステアリングに、路面の凹凸を感知し、減衰力を自動で3段階に調整する電子制御スーパーソニックサスペンションなど走りは熟成が図られている。
また、後述するが世界初の電動格納式ドアミラーなど先進技術もマシマシで、装備面はハイソカー随一の充実っぷり。後期型ではツインカムターボ(RB20DET)を加えるなど手数は揃っていたが、当時のユーザーは豪華絢爛なローレルではなく、スポーティな香りのするマークII3兄弟を選んだことで、販売台数は遠く及ばなかった。
走りも世界基準、デザインも含めジャパンオリジナルを確立
ボディは4ドアハードトップのみとなり、直線基調でクリーンかつ、スポーティさを加えたマークII3兄弟路線に、日産らしいアクの強さをプラスしたジャパンテイストのデザインへシフトした6代目(C33)。
エンジンはV6を廃止しリファインされたRB系を軸に搭載。サスペンションはフロントこそ、旧型と同じストラットであったが、リヤは新開発のマルチリンク(+ハイキャスII)を採用。高性能セダンとして生まれ変わったR32スカイラインの基本コンポーネンツを得たことで、居住スペースは犠牲となったが見た目だけでなく走りも一級品に。ポテンシャルはライバルを大きく上まわった。これにより販売台数は持ち直し、歴代2位となる34万台の売り上げを記録している(1位は2代目の35万台)。
3ナンバーボディに拡大し、ゆとりある高性能セダンとして昇華!
1993年にフルモデルチェンジした7代目(C34)はシリーズ初の3ナンバーボディとなり、サイズは拡大。足まわりはキャリーオーバーされたが、エンジンは直4を廃止して、直6オンリーへ。排気量も2Lではなく2.5Lが主流に。スポーツ路線に加えて、空間を含めてゆとりある走りを目指した。ボディデザインは安全性を考慮し、ピラーレスハードトップからピラードハードトップに変更。1994年には2.5Lターボと歴代初の4WDモデルを設定。さらにSRSエアバッグシステムが標準化されるなど、安全面にも力が注がれた。
ローレルのファイナルモデルとなった8代目(C35)は、デザインを6代目のクリーンなイメージをモチーフとした流麗なフォルムとなった。ただし、基本コンポーネンツに目新しさはなく、ほぼ先代のメカニズムを踏襲。1998年にはRB25DE&RB25DETともにパフォーマンスアップが図られ、ターボは自主規制いっぱいの280psに到達した。だが、ファミリーカーの主役はセダンからミニバンへと移行し、アッパーミドルクラスセダンの販売台数はライバルを含めて伸び悩む。加えて日産の業績悪化によってローレルは車種統合の対象となり、セフィーロと統合する形で2002年に生産終了(販売は2003年まで)した。
単なる派生車でなく、日産の先進技術が数多く投入された重要戦略車の1台
34年の歴史を振り返ると、初代を除けばスポーツセダンであるスカイラインのコンポーネントを使った高級パーソナルセダンという立ち位置は変わらないが、歴代モデルの多くに日産初、世界初を含めて最新機構や装備が真っ先に投入された先進のセダンであった。
一例を挙げると初代のラック&ピニオン式ステアリング(日産初)、4代目の世界初のタイマー付パワーウインドウ、足踏解除式パーキングブレーキ、車速検知式オートドアロック、5代目は世界初の電動格納ドアミラーを軸に、ランバーサポート付き運転席パワーシート、雨天感知式オートワイパー、RB20エンジン、6代目のエクセーヌシート(国内初)など数多い。生まれる前から時代に翻弄されたローレルだが、ハイオーナーカーの王道を歩むべく、さまざま試みが施された。単なるスカイラインの派生車ではなく、日産にとって重要な戦略車であったことは間違いない。