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サファリ王者の「後継」だけど大苦戦! スープラは何故「ラリー」では歯が立たなかったのか?

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TEXT: 原田 了(HARADA Ryo)  PHOTO: 原田了,TOYOTA,齋藤優

セリカGT-FOURにバトンタッチ

 スープラの次なる舞台はアイボリーコースト・ラリー。後輪駆動車が、そしてトヨタとTTEが得意としていた、もうひとつのアフリカン・ラウンド。当然、スープラは優勝候補の筆頭に挙げられていましたが、1週間前に香港~北京ラリーを戦い終えたばかりというハードスケジュールが気になるところでした。そしてそのことが思わぬ悲劇を生むことになりました。北京から空路、アイボリーコーストに向かったコンペティション・マネージャーのヘンリー・リドンが乗った飛行機が墜落し、リドンは帰らぬ人となったのです。ワルデガルドと打ち合わせするリドン

 彼の喪に服すためにチームはイベントからの撤退を決断。優勝候補に挙げられていたスープラは戦うことなくドイツに引き上げることになりました。翌1988年にはセリカGT-FOURが実戦デビューを果たしていますが、サファリは引き続きスープラで戦うことになりました。スープラ・サファリ仕様 しかし、同年からチームに加わったケネス・エリクソンとカンクネン、そして引き続きエースを務めるワルデガルドが、それぞれ4位、5位、7位に留まり、スープラのWRCチャレンジは終了。香港~北京ラリーで優勝を飾ったものの、悲運のラリーカーの歴史を終えることになりました。

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  • 原田 了(HARADA Ryo)
  • 原田 了(HARADA Ryo)
  • ライター。現在の愛車は、SUBARU R1、Honda GB250 クラブマン、Honda Lead 125。クルマに関わる、ありとあらゆることの探訪が趣味。1955年、岡山県倉敷市生まれ。モータースポーツ専門誌の地方通信員として高校時代にレース取材を開始。大学卒業後、就職して同誌の編集部に配属。10年間のサラリーマン生活を経て90年4月からフリーランスに。モータースポーツ関連の執筆に加え、オートキャンプからヒストリックカーイベントまで幅広く取材。現在ではAMWに、主にヒストリー関連コラムを執筆。またライフワークとなった世界中の自動車博物館歴訪を続け、様々な媒体に紹介記事を寄稿している。
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