大衆車に組み込んだ秀逸技術が大飛躍
20世紀でもっとも影響力のあったクルマに与えられた自動車賞、カー・オブ・ザ・センチュリー(Car of the Century : COTC)で、トップとなるフォードT型に続いてミニは2位にランクインしています。ちなみにシトロエンDS、フォルクスワーゲン・ビートル、ポルシェ911がその後に続いています。まさに歴史的なクルマであるミニをしばし振り返りましょう。
天才設計者が作り出した脅威のモデル「ミニ」
現在では“クラシック・ミニ”と呼ばれていますが、当時のブランドではオースチン/モーリスだったミニは1959年にデビューしています。
オースチンと合併したのを機にナッフィールドを飛び出していたイシゴニスをBMCに呼び戻したのはBMCの会長を務めることになったサー・レナード・ロードですが、ニューモデルの開発にあたっては「既存のラインアップにあるエンジンを使用すること」を要求していました。そのことからADO15は、BMCが当時生産していた中では最小排気量だった850㏄直4のAシリーズエンジンを装着するしかなかったのです。
しかしその一方で、それ以外はすべて自由に設計できると判断したイシゴニスは、直4エンジンをフロントに横置きマウントして前輪を駆動するパッケージを採用しています。さらに前後のサスペンションはウィッシュボーン/トレーリングアームと奇をてらったものではありませんでしたが、これに組み合わせるスプリングを、一般的な金属製のコイルスプリングではなくコーン(円錐)状に成形されたゴムを使っていたことが大きな特徴でした。
さらにタイヤもダンロップによって新たに開発された10インチと小径で、結果的にミニのハンドリングはゴーカートのようなクイックなものとなっていました。そしてF1GPマシンなどの製造でも知られたクーパー・カー・カンパニーの経営者で、イシゴニスの友人でもあったジョン・クーパーが、このミニの驚異的なハンドリングに注目。ミニ(ADO15)の高性能モデルとしてミニ・クーパー(ADO50)が1962年に誕生することになったのです。
モータースポーツで名を売り販売台数も急増
こうして誕生したミニとミニ・クーパーは、モータースポーツでも目覚ましい活躍を見せるようになり、さらにその活躍によって評価が高まって販売が伸びていく、という好循環に乗っていきました。サーキットレースでもその活躍は見事なものがありましたが、より大きなニュースとなったのはラリーでの活躍でした。
この時点ではまだ世界選手権ラリー(WRC)は制定されていませんでしたが、モンテカルロ・ラリーやRACラリーなどは開催を重ねてビッグイベントに成長していました。そしてBMCはモンテカルロ・ラリーに着目しワークスチームを送り込んだのです。
デビューの翌年から、リザルトにはミニの名がありますが、有力なドライバーとして初めて参戦したのは1962年のパトリシア・アン“パット”モス・カールソンで、この時点ではまだ登場して間がないモーリス・ミニ・クーパーを駆り総合26位でグループ1の1クラスでクラス3位入賞を果たしています。ちなみに彼女はF1王者にはなれなかったけれど“無冠の帝王”と呼ばれたスターリング・モスの妹で、同時にスウェーデンのラリードライバーとして“Mr.SAAB”と呼ばれたエリック・カールソンの夫人です。
モンテカルロ・ラリーで総合優勝を果たす
話をミニ&ミニ・クーパーの活躍に戻しましょう。翌1963年にはラウノ・アルトーネンが総合3位、パディ・ホプカークが、総合6位入賞を果たしています。ちなみに、この時の総合優勝はサーブ96をドライブしたエリック・カールソンでした。そして1964年にはとうとう、ホプカークが総合優勝を果たすことになったのです。
クルマはミニ・クーパーから排気量を拡大したミニ・クーパーSに進化していましたが、クーパーの997㏄から1071㏄に引き上げられただけでしたから、まさに『山椒は小粒で……』を地で行く活躍でした。続く1965年にはティモ・マキネンが優勝してミニ・クーパーSとして2連覇を果たすことになりました。
さらに1967年にはラウノ・アルトーネンが勝っていますが、実は1966年も、ゴールした時点ではティモ・マキネンがトップの成績だったのです。しかしゴール後にヘッドライトに規則違反があると、まるで“難癖”をつけられたようになって失格。代わってシトロエンDS21のパウリ・トイボネンが優勝するという、不可思議な結果となりました。