「AP」を掲げて登場した意義深きゴージャスカー
コスモAPのデビューは1975年。第1次オイルショックの直後、かつ厳しい排気ガス規制が敷かれる中だった。車名の“AP”は“アンチ・ポリューション=公害対策”を意味し、コスモAPは他社に先んじて「昭和51年排気ガス規制」をクリアさせた形でコスモAPを発売。実はとても意義深いクルマだった。
新時代到来を告げるクルマオンパレードのなか“赤い衝撃”
当時の空気感でいうと、1975年前後は新時代を予感させる国産車が相次いで登場してきた時期である。コスモAPのほかにも、三菱・ギャランΛ(1976年)、トヨタ・セリカXX(1977年)などコスモAPと同ジャンルのスペシャルティカーや、初代ホンダ・アコード(1976年)、ネオクラシカルな3代目トヨタ・マークII(1976年)、はたまたコンパクトカーではダイハツ・シャレード(1977年)、三菱・初代ミラージュ(1978年)など、それまでの多くの国産車とはどこか趣の異なる、気持ちをワクワクさせてくれる新型の乗用車が多数、登場していた。
そうした中で“赤いコスモ”の登場は、かなり衝撃的だった。イメージカラーの赤は、その名も“サンライズレッド”と呼び、比較的、幅広く色が揃うバリエーションの中でもひと際鮮烈だった。
さらにコスモの艶やかさにいささかもヒケを取らないクッキリとした目鼻立ちが印象的だった宇佐美恵子(今もファッション界やエッセイストとしてご活躍のようだ)をモデルに起用。CMソングは、当時、通な音楽好きから支持されていた、しばたはつみの組み合わせ(阿川泰子は1981年のいすゞ・ピアッツァのCMのほうである)と、何ともゴージャスなもの。前述のとおり時代背景はややショボンとした空気が漂っていたものの、それを一気に吹き飛ばすかのような勢いが感じられたものだった。
筆者もそんなパワーにあやかって、バンダイの1/20のプラモデルを作り、実車風に見えるようナンバープレートのデカールを貼った完成車を、庭の芝の上に置き、写真に撮って楽しんだものだ。
まさにアメリカ然とした存在
話をコスモAPの本物に戻すと、アメリカの市場要求から生まれただけあり、“出で立ち”はかなり派手というか存在感があった。人によっては派手なフロント(個人的印象だが、グリルはブラウンのシェーバーに思えた。上面まで折れ曲がっているのは冷却性能のため)に対し、口角を上げて微笑むチャーリー・ブラウンの口元のような形のテールランプ&ガーニッシュのリヤは、ややスッキリしすぎでは? の声もあった。
いずれにしろ、デザイン上のアクセントだった“センターピラーウインドウ”と呼ばれた小窓が外観上の特徴で、カタログには“ボディ強度と視界を両立させるためのアイデア”と記されている。サイドウインドウには、当時としては画期的だった曲率半径1000mmのガラスを使うなど、空力と居住性を両立させた設計が折り込まれていた点も見逃せない。
スタイリングでいえば1977年に追加されたコスモLが、バリエーションの幅を広げた。まさしくアメリカ車方式のキャビン後半をレザートップとしたノッチバックスタイルで、もうひとつの個性を楽しませてくれた。ちなみにランドウトップ部分のオペラウインドウは開閉式で、下級グレードはレギュレーターハンドルを手で回して昇降(開け閉め)させるようになっていた。
また途中のマイナーチェンジでヘッドランプが角型2灯に変わり、グリルは彫りの深い格子状に。リヤまわりは天地に幅広なガーニッシュが備わる、やや平凡なデザインに。平凡といえばインテリアもそうで、初期型は曲線基調のインパネがいかにもスペシャルティカーらしいものだったが、マイナー後は、ルーチェか何かのタクシー仕様のセダンのインパネですか? といった感じの素っ気ないデザインに。シートに関しては、初期型の噎(む)せるようなワイン色がなくなり(着座感は当時の国産車の典型といった、座るとバフッ! とクッションが沈み込むイメージのものだった)、サイドサポートが期待できる形状と落ち着いた色あいのシート表皮に改められたのだったが……。
内装ではほかに“セーフティパネル”と呼ぶ天井のインジケーター一覧も特徴。もっともこれはトヨタの“OKモニター”に倣ったものだった。