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「栄光のル・マン」への飽くなき挑戦! 意余って力足らずの「伝説になり損ねたGT-R」2選

勝たねばならないGT-Rも最高位はクラス5位

「ル・マン24時間レース」。クルマ好きなら一度はそのレース名を聞いたことがあるだろう。フランスのサルト・サーキットで開催。日本車では1991年にマツダ787Bが総合優勝を果たしたことが有名だが、GT-Rだって負けちゃいない……かもしれない。ル・マンに参戦したGT-Rの戦いっぷりをここで振り返ってみたい。

ツーリングカーレースでは無敵のGT-R!

 フランスのル・マン24時間レース(以下ル・マン)は、日本人にとっても馴染みの深いビッグレースだ。一般的なイメージとしては、ル・マンはプロトタイプレーシングカーのレース。ハコ車、いわゆる量産車によるツーリングカーの24時間レースとしては、ベルギーのスパ24時間レースがある。ル・マンと並んでスパは欧州でも人気の24時間レースだ。

 1990年にR32スカイラインGT-RのグループN仕様がスパ24時間に参戦し、グループNクラスの1位から3位までを独占。翌1991年にはグループA仕様のR32GT-Rが参戦し、ブッチギリの総合優勝を遂げた。一方、ル・マンでは1990年にグループC仕様の日産R90CPが総合5位でゴール。優勝候補の最右翼だったがゴール直前のミッショントラブルで、表彰台の頂点を極めることができなかった。その後、日産/ニスモはル・マンへの挑戦を休止していた。

 しかし1995年、ニスモはR33スカイラインGT-RをベースにしたNISMO GT-R LMでル・マンのGT1クラスに再び参戦することを決定した。スカイライン史上、初めてとなるル・マンへの挑戦であった。

FRのGT車両をベースに600psを搭載!

 このル・マン参戦マシンは、国内で行なわれていた全日本GT選手権シリーズに参戦していたGTマシンと基本的には同じスペック。搭載するエンジンは2.6LのRB26DETT。全日本GT選手権用はエアリストリクターによる出力制限があったため、最高馬力は450ps+αと言われていた。対するル・マン用のエンジンは600ps以上を発揮していたという。

駆動方式はベースのスカイラインGT-Rはトルクスプリット式4WDだったが、GTマシンはFR方式を採用。ル・マン用マシンも国内GTマシンと同様にFR方式だった。またサスペンションは市販車が前後マルチリンク式だったのを、前後ダブルウイッシュボーンに変更。これは大径タイヤの装着と車高ダウンを可能にするための変更だった。一方、マシンの骨格となるモノコックボディは量産車のスチールモノコックを改造したもので、ボディカウルは前後のワイドフェンダーやボンネット、トランクリッドなどがカーボン製となっていた。

市販版は日産ではなくニスモが製造

 ただし、当時の規則でGT1クラスの参戦には、GTマシンと同じメカニズムとボディを持つ市販車を作ることが条件だった。さらに公道を走れるナンバーを取得した市販車が存在しないと参加が認められなかった。そこでNISMOは、ナンバー取得を前提とした市販バージョンを製作。後輪駆動で4輪ダブルウイッシュボーンサスペンションを備えた「NISMO GT-R LM」だ。実際にイギリスでナンバーを取得し、カタログも作っている。

 ちなみにこのクルマの製造者は日産自動車ではなくニスモだった。理由はスカイラインファミリーにはGT-Rもあれば4ドアセダンも存在する。4ドアセダンの存在がル・マン参戦のGTマシンとして認められないという懸念があったため、ニスモが作ったスポーツカーになったというのだ。

 とはいえ、R33スカイラインGT-Rベースのスチールモノコックのマシンで、好成績を狙うのは難しかった。当時、LM-GT1クラスのライバルは、マクラーレンF1 GTR、フェラーリF40 GTE、ポルシェRSR GT1、ジャガーXJ220など、いわゆるスーパーカーたちだった。とりわけ、最有力のマクラーレンF1 GTRはグループCカーのようなカーボンモノコックシャーシにパワフルなV12エンジンを搭載していた。

優勝狙いと完走狙いで「結果」は残したが……

 ともあれ、1995年の第63回ル・マン24時間レースに2台のR33GT-Rは挑戦した。エースナンバーを付けるクラリオン・カラーの23号車は、星野一義、鈴木利男、影山正彦がドライブ。日産伝統のトリコロールカラーの22号車には、福山英朗、粕谷俊二、近藤真彦が乗っている。

 エースカーの23号車には、600psのエンジンとXトラックの6速シーケンシャルミッションを搭載。もう一方の22号車には、完走狙いの耐久性重視でN1仕様のエンジンとHパターンの日産製5速ミッションを採用した。

 レースでは23号車が一時は5位まで浮上したが、ミッションにトラブルが発生。スタートから18時間でリタイヤした。一方、22号車は予定通り淡々と走り、最終的に総合10位・クラス5位でチェッカーを受けた。チェッカーを受けたドライバーは近藤。ゴールの瞬間、車内でガッツポーズを取る近藤選手の姿はテレビでも放映され話題となった。

 翌1996年のル・マンに向けてGT-R LMは進化する。エンジンは2.8Lに排気量を拡大。ドライサンプ仕様に変更されエンジン搭載位置も下げた。しかし、GT1クラスのライバルたちは、それ以上に進化を遂げており、結果は、23号車の総合15位・クラス10位が精いっぱいの状態だった。もはや、市販車ベースのスチールモノコック製のハコ車では勝負権は完全になくなっていた。当時のニスモスタッフの「ライバルはピット前のホームストレートを通過する際に、コンクリートウォールでマシンは見えず音だけが目の前を通過する。でもGT-Rはルーフもバッチリ見えちゃうんだよね」という言葉がすべてを語っていた。

 結局、当初は3カ年計画だったスカイラインGT-Rのル・マン挑戦を諦め、次年度以降はR390 GT1というカーボンモノコックシャーシを持つマシンで参戦することになった。

20年後に再挑戦した“GT-R”はもはや黒歴史

 1995年のスカイラインGT-Rのル・マン初挑戦から20年後の2015年。日産は再び「NISSAN GT-R LM NISMO」というGT-Rの名を持つマシンでル・マンに帰ってきた。

 このマシンは、GT-Rの名を持つが、LMP1-Hybridクラスに参戦するために北米主導で開発した完全なプロトタイプレーシングカーだった。

 その内容はかなり異色で、一般的にプロトタイプレーシングカーはミッドシップレイアウトで後輪を駆動するのが常識だが、なんと前輪駆動(FF)だった。エンジンもフロント部に搭載するため、異様にフロントノーズが長い。当時、日産は規則上、空力性能はFFにしたほうが有利だとし、革新的なレースカーであると胸を張っていた。

 なぜFF車にGT-Rの名を与えたのか、当時も否定的な意見が多かった。案の定、レースでは惨憺たる結果となり、テレビ解説者の辛辣なコメントも印象的だった。

 これを「GT-Rとル・マン24時間レース」の歴史の一部とするか。当事者の日産は「黒い歴史」として封印したいところだろうが、同じ過ちを犯さないためにも後世に事実を伝えるべきだろう。

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