日産ヘリテージコレクションに貯蔵される聖火搬送車
第二次世界大戦が終わってから10年後の1955年、日本のGNP(国民総生産)は戦前の水準を超えた。ここから高度経済成長が始まり、日本は再び国際社会の表舞台で認められるようになる。そのシンボルとして招致したかったのが東京オリンピックだ。1959年に2度目の立候補を行い、5月のIOC総会において欧米の3都市を破って開催が決定した。悲願の開催は1964年(昭和39年)10月だ。
オリンピック開催にあたって、政府は交通機関や道路などのインフラを整備した。東海道新幹線や東京モノレールを開業し、首都高速道路や名神高速道路に始まる高速道路も積極的に建設している。インフラ整備と歩調を合わせるように、日本にもモータリゼーションの波が押し寄せてきた。排気量360ccの軽自動車から普通車規格の高級セダンまで、バリエーションは一気に増えたのである。
聖火リレーに先立ち、大会組織委員会は自動車メーカーとオートバイメーカーに協賛を呼びかけ、オリンピックに使う車両の貸与を申し出た。大会役員や関係者、海外から来たマスコミ記者などを乗せるクルマが足りなかったし、聖火リレーの伴走車と聖火の搬送車も必要だから声をかけたのである。
だが、自動車先進国を自認する欧米の記者団を納得させられる日本車は少ない。そこでプレミアムセダンを中心に、協賛車両をリストアップし、貸与を申し出た。
日本のプレミアムセダンはトヨペット・クラウンに始まる
話はオリンピックからそれるが、今につながるプレミアムセダンは、トヨタ自動車が1955年に発売した中型乗用車のトヨペット・クラウンに始まる。タクシー需要もあったが、富裕層からは後席に貴賓を乗せるショーファーカーとしても持てはやされた。
プリンス自動車は、1959年4月にスカイラインの上に位置するグロリアを発売している。1962年9月、初めてのモデルチェンジを敢行し、第2世代のグロリアが登場した。
日産も1960年春にセドリックを発表し、プレミアムカー戦線に名乗りをあげている。これはダットサンではなく「ニッサン」のブランドネームを冠したフラッグシップ4ドアセダンだ。秋に中型乗用車の排気量の上限が引き上げられるのを見据えて販売を開始した。 デビュー時は1488ccのG型直列4気筒エンジンを積んでいたが、10月に「1900カスタム」を仲間に加えている。基準車のホイールベースを100mm延ばしてキャビンを拡大し、エンジンは1883ccのH型直列4気筒OHVだ。
乗用車の税制が緩和されるとともに、1961年4月には物品税も改正された。5ナンバー車の排気量上限は2000ccまでに引き上げられ、小型車乗用車の税率は15%に引き下げられている。これ以降、プレミアムセダンの主役は1900ccエンジンになり、少し後には枠いっぱいの2000ccになるのだ。