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貴重な「文化遺産」が存亡の危機! 日本初の常設サーキット「多摩川スピードウェイ」跡地を絶対に保存すべき理由とは

多摩川スピードウェイの観客席

鈴鹿サーキットよりも古い伝統あるサーキット

 ホンダ(本田技研工業)の創業社長である故本田宗一郎さんが1962年(昭和37年)に、三重県鈴鹿市に国内初の常設サーキットとなる鈴鹿サーキットを造り上げました。翌1963年に第1回日本グランプリが開催されていますが、これが国内における近代スポーツの発祥とされています。

 しかしそれ以前にもいくつかのサーキットが誕生していました。以前、Auto Messe Webでも紹介していましたが、多摩川スピードウェイもそのひとつです。東京と神奈川の都県境を流れる多摩川の河原にあった、オリンピア球場の跡地に整備された同スピードウェイでは、誕生した1936年(昭和11年)から39年(同14年)まで6回のレースが開催されていました。

 1936年のオープニングレースでは、フォードを改造した車両で参戦した本田宗一郎/弁二郎兄弟が、アクシデントでクルマから放り出されてしまったものの、九死に一生を得たという出来事がありました。もし彼らがここで命を落としていたら、今の鈴鹿サーキットやホンダが存在していたかどうかはモチロンですが、国内の自動車産業としても大きな変換点となっていたかもしれない出来事でした。

 その後、1周1.2km、ダートのオーバルコース自体は取り壊されてしまいましたが、堤防に整備されたグランドスタンドは、今も当時の名残を伝えています。

治水事業と両立されることを切に願う

 そんな多摩川スピードウェイ(のスタンド)跡地ですが、じつは今、存亡の危機に瀕しています。『多摩川スピードウェイ』の跡地保存と、その歴史的意義の研究・情報発信を行う任意団体『多摩川スピードウェイの会』(会長:片山 光夫/https://www.facebook.com/TamagawaSpeedwaySociety)の緊急声明によると、「多摩川河川敷の堤防強化工事の一環として、現存する観客席を完全に取り壊し、盛り土や連接ブロックにより新たな堤防を造成することになった」とされています。

 そして「多摩川河川敷の堤防強化工事を順次進めてきた国土交通省関東地方整備局京浜河川事務所からは、多摩川スピードウェイの跡地がある丸子橋付近(川崎市・上丸子天神町地区)について、2021年10月ごろに着工する旨、7月2日に初めて通達がなされた」とのことです。

『多摩川スピードウェイの会』では、「国交省による一級河川の治水事業は公益性・流域住民の安全のため、最優先で実施されるべきもの」との認識を示しています。そのうえで、「本跡地と観客席の日本の自動車産業発展における産業遺産的な重要性、さらに川崎市の行政ビジョン『川崎市新多摩川プラン』で跡地の保存が明言されていることに鑑み、観客席の保全と治水事業の「両立」が図られるべきものと考えます」としています。

 また「両立を図るために、7月12日に行われた会議において工事計画見直しの申し入れを行い、観客席の部分的な移設などの妥協案も提示したところ、担当官は現工事計画を決定事項として伝えるのみで、保全に向けたほかの工法については検討・協議の意志さえ示すことがなかった」とのことです。

 これまでにも各地で、こうした問題が起きてきました。そしてこれまでのケースでは“文化遺産”の価値がないがしろにされ、問題解決に長い時間が割かれることも多くありました。もちろん、治水事業の重要性は言うまでもありませんが、それと同じくらいに“文化遺産”の価値も見過ごすことはできません。とくに、今回のようなケースでは、一度取り壊してしまうと、二度と手に入らない訳で、国土交通省関東地方整備局京浜河川事務所には『多摩川スピードウェイの会』と議論を尽くす会議をし、その上でも決断には慎重にも慎重を期してほしいものです。

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