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戦後直後は電気自動車が一般的だった? 日産リーフのご先祖「たま電気自動車」がスゴ過ぎた

電気自動車の源流を探ってみよう

 純ガソリンエンジンは減り、ハイブリッドが当たり前になってきた。今後は電気自動車や水素が増えていくだろう。今や日産リーフが当たり前のように走る時代になってきた。しかし、電気自動車は実は新しいモノではない。戦後間もなく多数のEVが発売されていた。その背景と、現在の日産リーフの先祖ともいうべき「たま電気自動車」、そして日産のEVへの取り組みに迫ってみよう。

日産リーフのルーツ「たま電気自動車」とは?

 たま電気自動車は、1947~50年に発売されていた、東京電気自動車製のEVである。東京電気自動車は、このEVの車名にちなんで、後に「たま電気自動車」と社名を変更している。

 東京電気自動車とは、戦時中の立川飛行機の流れを汲む自動車メーカーだ。戦後、航空機産業が解体され自動車製造業へ移行した例としては、中島飛行機の流れをくむ富士重工業(現SUBARU)も同様だ。たま電気自動車は、のちのプリンス自動車工業の前身でもある。そのことから、プリンスと日産自動車が合併したため、日産が2010年に売り出したリーフのルーツは、たま電気自動車になるとの筋書きが生まれる。

「たま」という車名の由来は、北多摩郡府中町に製造工場があったため、地名にちなんだと言われる。

ガソリン不足による電気自動車の誕生

 戦後、国内でのガソリンは配給制で、自由に購入できなかった。米軍による本土空襲で、民間人を含む死者が50万人に及び、国内各地が焦土と化し、産業も壊滅的であった。それでも水力発電による電力の供給はあったという。そこで、移動手段としてEVが求められた。

 オオタ号と呼ばれた小型トラックの床下に、鉛酸バッテリーを搭載し、エンジンに替えてモーターを搭載した。最高時速は35km/hで、一充電走行距離は65kmだった。まだニッケルカドミウムやニッケル水素、そしてリチウムイオンバッテリーのない時代であり、走行性能は限定的だったが、それでも、ガソリンが手に入りにくい以上、充電すれば走れるEVは貴重な存在だ。

 私は、1996年にダイハツが発売したミゼットIIを購入し、EVに改造して乗っていたが、当時もまだ手に入れられるのは鉛酸バッテリーしかなく、これを10個車載して走行できたのは、実走行として40km程度だった。したがって、たま電気自動車の性能は決して悪くはない。鉛酸バッテリーの限界まで使い切った性能といえる。

 1950年になると朝鮮戦争がはじまり、朝鮮半島へ向けて日本が連合国軍の最前線となったことにより、ガソリンの供給も回復。EVである必要がなくなった。それにあわせて、たま電気自動車の製造も終わった。

新技術への挑戦の志は今の時代へも続く

 それから60年の歳月を経て、日産からリーフが発売されたのである。かつてのたま電気自動車の影響がそこにあったかどうか定かではない。しかし時代を考慮し、最適なクルマを生み出そうとする姿勢には通じるところがある。そもそも日産自動車の創業を振り返れば、明治時代の快進社自動車工場や戸畑鋳物に遡り、日本で自動車を製造しようとした開拓者たちの時代へ至る。時代を切り拓くという意味では、志がつながるともいえる。

 まだ実用化が見えない時代に、ノーベル賞を受賞した旭化成の吉野彰氏が実用化の堵を拓いたリチウムイオンバッテリーのEVへの採用を摸索したのも日産が早かった。そして、ソニーと共同で開発し、試作車で実験を重ね、のちにNECと共同でEV用リチウムイオンバッテリーの自社生産に乗り出すなど、日産のEVへの思い入れは並大抵ではない。リーフを発売したことで、e-POWERという独創のシリーズ式ハイブリッドシステムも誕生することになる。

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