BMWがスーパーカーに乗り出した驚異的マシン
戦後は高性能ツーリングカーメーカーとしての印象が強かったBMWが、突如スポーツカー(GTカー)の開発に乗り出したのは1976年のことだった。ただし、企画を手掛けたのは量産車部門ではなく、ヨッヘン・ニーアパッシュが率いるモータースポーツ部門だった。この車両こそ、現在はBMWのスーパースポーツカーとしてその名を残すM1(E26)である。
艶やかなシルエットフォーミュラに注力
モータースポーツ部門が開発を手掛けた量産車という点で興味深い車両だが、当時はツーリングカーの雄として自他共に認める存在だったBMWが、新たなフィールドとして目指したカテゴリーがスポーツプロトタイプカーによるメイクス選手権だった。当時のメイクス選手権は、1972年に制定された3Lプロトのグループ6規定で推移していたが、シリーズ自体の流れは衰退傾向にあり、心機一転を図ったFIA(国際自動車連盟)が、内容を一新したグループ5規定(シルエットフォーミュラ)を導入。こちらを冠タイトルの対象とすることでメイクス選手権の活性化を図る状態にあった。
M1が企画されたのはちょうどこうした時期のことで、グループ5カーとして勝てる内容、性能を盛り込む車両として計画は進められた。正確には、グループ4車両(連続した24カ月に最低400台以上の生産台数)として生産し、それをベースにグループ5化するという手順がBMWが意図した青写真だった。
実際のところ、量産車の生産には手慣れたBMWだったが、レーシングベースの少量生産車両は設計も量産車とは異なる視点となることから、車両設計は後にレーシングカーの設計で名を残すことになるジャンパオロ・ダラーラに、ボディデザインは付加価値の高いスーパースポーツカーらしくイタリアンカロッツェリアのイタルデザイン(ジョルジエット・ジウジアーロ)に、車両の組み立てはランボルギーニ社に、それぞれ依頼する体制でM1プロジェクトはスタートし、1977年に試作車が完成した。
日本レース界でもくさびを刺す猛威のM1
M1は、鋼板を組み上げたセミスペースフレームにFRP成形の外皮を被せ、直列6気筒エンジンをミッドシップマウントする構造が採られていた。
実際、メイクス選手権から外れるかたちとなったグループ5規定は、ヨーロッパのレースフィールドからも姿を消す流れとなり、DRM(ドイツレーシングスポーツ選手権)が唯一の活動の場として残る程度だった。しかし、ここでもポルシェ935の優位は変わらず、M1は主導権を握れぬままレース活動を続ける状態だった。
意外に思われる方がいるかもしれないが、レース車両のM1が最も成功した国は日本で、オートビューレックが導入したM1は、スーパーシルエットレースや富士ロングディスタンスシリーズで好成績を収め、数少ないM1の成功例としてレース史にその名を残している。
堅牢NAエンジンが見せたターボ勢との死闘の数々
また、M1の心臓部となった直列6気筒3.5LのM88型エンジンは、性能が高く安定していること、壊れないこと、メンテナンスが容易であることなどから、その後耐久レース(WEC、WSPC)のグループC2カー用エンジンとして重宝がられ、フォード系V8エンジンと争いながらタイトルを掌中に収める成功を見せていた。
3453ccのM88型直列6気筒エンジンから2気筒分を切り落とすと排気量2302ccの直列4気筒となり、このエンジンがM3に搭載されたS14型エンジンそのものとなる。
自然吸気エンジンを使うことで、絶対パワーこそターボカーに及ばなかったが、バランスに優れたミッドシップシャーシはハンドリングで優位に立ち、ともするとターボラグの処理に手を焼くパワー第一主義のグループ5カーにひと泡吹かせる場面も多々あった。