ポルシェ博士もダイムラー・ベンツ社に在籍していた!
1906年30歳になったフェルディナンド・ポルシェは当時、シュツットガルトのダイムラー本社がオーストリアに造った子会社「アウストロ・ダイムラー社」の技師長として迎えられる。乗用車、レーシングカー、航空エンジンと彼の才能は大いに開花した。こうした業績で1916年にはウィーン工科大学から「名誉工学博士号」を贈られたのだ。
1923年には技術担当重役として、シュツットガルトのダイムラー本社に迎えられる。そして、新開発したのがメルセデスの2L4気筒スーパーチャージャー・レーシングカーだ。
このクルマはレースで上位を独占し、彼の名はさらに高まる。1924年7月4日にシュツットガルト工科大学からも「名誉工学博士号」を授与されている。1926年6月28日にダイムラー社とベンツ社が合併し、社名はダイムラー・ベンツ社になった。新会社の技術陣の顔ぶれは、ニーベル博士、ナリンガー博士、そして1923年ダイムラー本社に移ってきたポルシェ博士という豪華メンバーだ。
戦後、すぐ生産されたのはポルシェ博士が手がけたツーリングカー・シュツットガルト200、マンハイム350、ニュルブルクリンク460。一方、戦時中の航空機研究で秘かに開発が進められていた自動車用コンプレッサーエンジンは実用化され、一連のツーリング・スーパーバージョンへと確立された。
1926年にはすでに、直6SOHC6.2Lコンプレッサー付き24/100/160ps、通称Kヴァーゲンが造られた(このKはコンプレッサーのKではなく、Kurzes Fahrgestellのドイツ語で短いシャーシの意味)。続いて1927年からポルシェ博士の有名なSシリーズの生産が開始された。
このS(Sport)、SS(Super Sport)、SSK(Super Sport Kurz=短い意味)、SSKL(Super Sport Kurz Leichht=軽量の意味)と続くシリーズは各国の富豪に納められ、またレースでは1933年まで多数の優勝記録を残し名車中の名車と謳われている。
ところで、ポルシェ博士は長年の夢である独自の1Lエンジンを搭載した小型車生産の必要性をダイムラー・ベンツ社の重役陣達に説いたが、このアイディアはそれほど魅力を示されなかった。つまり、当時の重役陣は重厚なメルセデス・ベンツのスタイルからして小型車のイメージが思い浮かばなく、大型車に固執した。そして遂に、ポルシェ博士は当時のダイムラー・ベンツ社を辞め、彼独自のクルマ造りの道を歩むことにしたのだ。
独立した社名は名誉工学博士F・ポルシェ有限会社
フェルディナンド・ポルシェ博士は1930年、54歳で独立し設計事務所をシュツットガルトで開いた。その社名を「名誉工学博士F・ポルシェ有限会社」と商業登記。つまり、苦学者・ポルシェ博士はこの称号に生涯誇りにしていた。現在も、ポルシェ博士の「クルマ造りの職人気質」が、メルセデス・ベンツやフォルクスワーゲン、アウト・ウニオン(現アウディ)、そしてポルシェへと受け継がれている。
現在では言葉や動作ですべて自分の好みや学習をサポートする革新のインフォメーションシステムが主流となり、最適な移動を提供する「MaaS」でより豊かな生活が始まっている。その背景にはインターネットとつなぐコネクテッド(C)、自動運転(A)、シェアリング(S)、電動化(E)がある。
こうした時代こそ脱炭素の流れを踏まえ、偉大な先人たちが築いたその時代の最高の技術を基に、あらゆるメーカーはお互いに最高の革新技術を融合させトータルバランスのとれたモビリティ社会の安全設計哲学がもっとも重要だろう。