ジウジアーロが手がけた117クーペは唯一無二のスタイリング
1978年だったと思うが、新聞の全面広告でビルの屋上に98台の117クーペが並ぶ写真が載った。記憶だけを頼りに書いているので、そのときのコピーまでは正確に覚えていない。だが、要するに1968年の登場から10年で117クーペの残存率は98%で、それだけ大事にオーナーに乗られているクルマです……ということを伝えるための広告だった。
旧い自動車のカタログに限らず、いろいろなモノをとっておくタイプの筆者だから、その広告も当然大事に切り取って保管していたはずだが、今はどこかに紛れ込んでしまい残念ながら見つからない……。
いすゞ117クーペは国産車の中でも特別な存在
その後、日本車もライフが伸びたせいか、10年といっても今の感覚では反対に案外と短かったとも思える。だが、いずれにしろそんな広告が自ら打てるほど、いすゞ117クーペは国産車のなかでもトクベツな存在だったという訳だ。
何を隠そう筆者は運転免許を取って最初のクルマとして117クーペに乗った。1977年式の新車のXCで、本当はDOHC搭載のXEが欲しかったが価格の差が大きかったことと、その世代のXEにはATしか設定がなく、MTに乗りたかったからXCを選んだ。
“角目”になる直前、滑り込みの“丸目”でもあった。とはいえ初期のハンドメイド車ではなかったから、大袈裟な自慢話は何もできないが、ひとりの117クーペファンとして乗れてシアワセだったし、今でもまた乗りたいとも思う。
ジウジアーロが手がけたスタイリング
言われている通り、117クーペはいすゞがセダンのフローリアンと前後してイタリアのカロッツェリア、ギア社にデザインを依頼。当時、同社にチーフデザイナーとして在籍していたG・ジウジアーロの描いたレンダリングから生まれた。
初出は1966年3月のジュネーブショーで、このときの最初のプロトタイプは“ギア・いすゞ117スポルト”と呼ばれた。同年10月の第13回東京モーターショーでは、早くも右ハンドルで、室内空間を広げるなどの改良を施したプロトタイプの“117スポーツ”を展示。
そして量産前提のクルマを翌1967年の第14回東京モーターショーで展示後、1968年の同ショーに合わせて最終生産型を披露し、車名の“117クーペ”とともに発表、発売された。