トラック専門メーカーもかつては美しいクーペで競演
トラックやバスの大型から小型まで、国内二大メーカーとして知られるいすゞ自動車と日野自動車ですが、いすゞは1993年に乗用車の自社開発を終了し、また日野は1963年に自社ブランドの乗用車生産を終了しています。ですから両社が、かつては乗用車メーカーだったことをご存じない若い読者もいるかもしれませんが、いま振り返っても魅力的な乗用車を生産していました。
今回は、そんな両社が生産していた美しいクーペを紹介していきます。その魅力的なクーペを紹介する前に、先ずはいすゞと日野の両社の成り立ちについても触れておきましょう。
同門から発し、英と仏ノックダウン生産を開始しライバル関係へ
いすゞは、石川島播磨重工業(=現IHI)の前身ととして1893年に誕生した東京石川島造船所に、1916年に設立された自動車部門が源流で、その自動車部門は1929年には石川島自動車製作所として独立しています。その後は合従連衡を繰り返し、また何度かの社名変更を経て、1937年には東京瓦斯電気工業と合併して東京自動車工業を設立。これが直接的にはいすゞの前身とされ、いすゞ自身もこの、1937年の4月9日を創立記念日と定めています。
1941年には社名をヂーゼル自動車工業に変更していますが、その翌1942年に日野製造所が分離独立して日野重工業が設立されています。これが日野の前身であり、結果的にいすゞと日野は同門ということになるのです。
分離独立から11年後の1953年、日野はフランスのルノーと技術提携し、ルノー4CV(PA型=750㏄の4ドアセダン)のノックダウン生産を開始。
一方のいすゞも同年から、イギリスのルーツ・グループと技術提携し、ヒルマン・ミンクス(1.5Lの4ドアセダン)のノックダウン生産を始めています。 もちろん公式的な記録としては残っていないようですが、いすゞと、分離独立した同門メーカーの日野との間にライバル心が芽生えていたことは想像に難くありません。この後いすゞはヒルマン・ミンクスの国産化を目指すと同時に、それよりも上級のベレル(2Lの4ドアセダン)を投入。
またヒルマン・ミンクスの後継となるベレット(当初は1.5Lの4ドアセダン)など、独自開発したモデルを投入していきました。 一方の日野もルノー4CVの国産化を図りながら、同時に独自開発したコンテッサ900(900ccの4ドアセダン)をリリース。
そしてその後継で発展モデルのコンテッサ1300(当初は1.3Lの4ドアセダン)を投入。メーカーとしての立ち位置を確立していきました。
ちなみに、かつては乗用車メーカーとしてライバル関係にあった、そして現在ではトラック・メーカーとしてライバル関係を続けている両社は、ラジオの深夜放送でもライバル関係にありました。1968年に日野がスポンサーとなって文化放送が制作・放送していた『走れ歌謡曲』に対抗する形で、1974年にはいすゞがスポンサーとなって『歌うヘッドライト』をTBSラジオが制作・放送を開始したのです。 どちらもエンドユーザーとして“お得意さま”の、深夜にドライブを続けるトラックドライバーや長距離バスのドライバーを支援する意味合いもあったようですが、そのライバル関係は番組が終了したあとも語り継がれています。ただしCMソングに関して言うなら『いすゞのトラック』が圧勝している、と思うのですが、皆さんはどうですか? それはさておき、そんな両社がリリースしていた美しいクーペがいすゞ117クーペと日野コンテッサ1300クーペです。
職人技で組み上げられた117クーペ
いすゞ117クーペは1968年にデビューしています。美しい2ドア4座のクーペボディは、ジョルジェット・ジウジアーロがカロッツェリア・ギアのチーフスタイリストを務めていた時代に手掛けられたもの。プロトタイプとされる117スポルトが、1966年のジュネーブ・ショーでお披露目されてから2年後に市販が開始されています。 同じく1966年のジュネーブショーに117サルーンとして出展され、翌1967年に市販されていた5/6座の4ドアセダン、フローリアンとシャーシを共有しています。フロントにエンジンを搭載して後輪を駆動する駆動レイアウトも同様でした。またフロントがコイルスプリングで吊ったダブルウィッシュボーンの独立懸架で、リヤがリーフリジットというサスペンションも基本的に共通しています。ですが、スタビライザーやトルクロッドが追加されるなど強化が図られていました。
さらに、引き上げられたエンジンパワーに呼応するように、ブレーキはフローリアンの4輪ドラムに対して117クーペではフロントがサーボアシスト付きのディスクブレーキに置き換えられていました。 注目されたのはエンジンです。フローリアンにも使用されていた1.6L直4プッシュロッドのG161をベースに、バルブ駆動系をツインカムに交換したG161Wを搭載。これはいすゞとしては初のツインカムエンジンで、最高出力もプッシュロッド仕様の84psから120psにパワーアップされていました。さらにそのあとには1.8Lや2Lのガソリンエンジンが追加され、モデル末期にはスポーツクーペには珍しくディーゼルエンジン搭載モデルも追加されることになりました。
もうひとつ注目すべき点は、1970年のマイナーチェンジでは、ボッシュ製のDジェトロニックを使用した電子制御燃料噴射システムを組み込んだG180WEエンジンを搭載するECグレードが追加設定されていますが、これは国内初の電子制御インジェクションでした。 1968年の発売開始当初は、ハンドクラフトで仕上げられていた117クーペでしたが、マイナーチェンジを重ねるにつれて組み立ての自動化率が高まっていき生産効率も向上しました。しかし、それを潔しとしない熱狂的なファンも少なくありませんでした。実際、テールランプのユニットが大型化され、最終モデルではヘッドライトが丸形2灯式から角型4灯式に変更されていましたが、これにはファンの評価も分かれるところとなりました。そして1981年には後継モデルとなるピアッツァが登場し、13年間続いたモデルライフも終了してしまいました。