美しいクーペのバラエティ“日野コンテッサ”はロングテール
一方、日野がリリースしたのは自社オリジナルの第2世代に追加設定されたコンテッサ1300クーペ。117クーペがグランドツアラー然とした4シーターだったのに対して、こちらは4ドアセダンをベースにルーフ後半を絞ったシルエットを持つ2ドアクーペに仕上げられていました。 登場までの経緯を紹介していくと、まずは1963年までライセンス生産を続けた日野ルノー4CVの後継モデルとして、日野が独自に開発したコンテッサ900が1961年に登場しています。本家のルノーでも4CVは1956年に後継のドーフィンにバトンタッチしていましたが、5年遅れで日本でも、バトンタッチが行われたのです。
後継となったコンテッサ900は、本家ルノーのドーフィンよりもひとまわりコンパクトな4ドアセダンで、リヤエンジン・リヤドライブのパッケージングを持っていました。搭載されたエンジンは、4CVのものをベースに排気量を900㏄まで拡大したもので、最高出力も4CVの21psから35psへと6割以上もアップしています。またフロントがダブルウィッシュボーンを、リヤがスウィングアクスルを、ともにコイルスプリングで吊ったサスペンションの基本レイアウトも4CVに倣ったものでした。ですが、リヤにはラジアスロッドが追加されるなど、当時の国内に多かった悪路に対する備えも抜かりありませんでした。 このコンテッサ900は1963年に鈴鹿サーキットで開催された第1回日本グランプリの、701~1000㏄のツーリングカーによるCⅢレースで優勝を飾っています。その優勝車両のデータを基に、ライトチューニングを施したスポーティモデルの900Sも追加設定されることになりました。そんなコンテッサ900の後継で、少しアップグレードしたモデルが1964年の9月に登場したコンテッサ1300です。さらに7カ月後の1965年4月には、今回の主人公の1台である美しい2ドアクーペ・ボディを持った1300クーペが登場してくるのです。
しかしこの間に、市販には至らなかったものの、1300クーペへと発展していく1台の美しいクーペモデルがありました。それが1962年にイタリアのトリノ・ショーで発表され、翌1963年の東京モーターショーで国内初お披露目となったコンテッサ900スプリント。
コンテッサ900のシャーシの上に、イタリアン・デザインの2ドアクーペボディを架装したもので、ボディのデザインと制作を担当したのはイタリアのジョバンニ・ミケロッティ。ボディデザインだけでなく、エンジンやサスペンションのチューニングをスペシャリストのエンリコ・ナルディが手掛けていて、最高出力はベースの35psから50psへとパワーアップがなされていました。 その900スプリントは発売にこぎつけることはできませんでしたが、そのイメージを踏襲し、1964年に登場した1300(4ドアセダン)をベースに魅力的なボディを纏っていたのがコンテッサ1300クーペでした。こちらのボディデザインも、コンテッサ900~900スプリント、1300(4ドアセダン)と同様、ミケロッティが担当。低いノーズとロングテールという、リヤエンジンの特徴的なシルエットが印象的でした。
搭載されるエンジンは、ルノーの4CV用をベースにした900用の900㏄直4プッシュロッドから一新し、1300用に新開発された1251㏄直4プッシュロッドのGR100(55ps)をさらにファインチューニング。最高出力も65psにまで引き上げられていました。もともとGR100はプッシュロッド(OHV)とは言うものの、吸排気系で別々のロッカーアームを使ってクロスフロー・レイアウトとしたもので、チューニングの余地もあったのでしょう。 いずれにしてもコンテッサ1300クーペはライバルと位置付けられていた日産ブルーバード(2代目の410系)の1200SSに並ぶパフォーマンスを実現することになりました。今から考えれば65psという数字は驚くには値しないのですが、ボディ重量が950kg前後と軽かったことで、当時としては十分すぎるほどのパフォーマンスを発揮していました。
話は飛びますが、日野の高性能へかける一途な想いの現れとして、当時レース仕様としてこの1300クーペにクラウン用のV8エンジン(排気量は3Lで最高出力は115ps)を換装した超怒級のハイパフォーマンスモデル、デル・ダンディ・ツーリング(通称“デル・コンテッサ”)がアメリカの日野ワークスチームであったBRE(ブロック・レーシング・エンタープライズ)により作られています、これもまた記憶に残る1台でした。