バブル時代の波に乗って日産から面白いクルマが次々に登場!
1980年代後半を絶頂期としたバブルの時代は、金が舞い、人々が浮かれまくっていて、今思えば狂乱ではあったけど、いいことも多かった。そのひとつが自動車業界で、予算は潤沢にあったことからさまざまな技術が登場、そして進化した。
今では信じられないが、サルーンを開発するにあたって「まずは高級ホテルに泊まってみる」などが普通にあった時代だ。また車種そのものも「それほど売れなくてもOK。それよりも面白いこと、贅沢なことをやる」というのが背景にあって、当然のことながら魅力的なモデルが多かった。そのひとつの表れが日産のパイクカーだろう。
なんと車名の由来は企画段階のB-1案をそのまま採用!
【Be-1/1987年発売/限定販売台数1万台】
1987年に日産のパイクカーシリーズの第一弾として登場したのが、初代マーチをベースにした「Be-1」。デザインは日産デザイン部以外も含めた、AからCの3つのチームが担当して競作。社員の投票で決められたが、採用されたのがBチームの第1案ということで、車名もこのB-1案に由来して、be動詞にかけてBe-1となった。 このB-1案はコンセプターの酒井直樹氏がプロデュースしたもので、「ノスタルジック・モダン」がコンセプトとして掲げられた。同氏は個性的なメガネが特徴で、当時、テレビでも見かけた人物だ。現在も活躍しているようだが、バブルの寵児と言ってもいいだろう。
初お目見えしたのは1985年の第26回東京モーターショーに出展されたコンセプトカーで、これが好評だったことから市販化された。1万台限定ということもあり、2カ月で完売。価格は130万円ほどと今では信じられない安さだが、手作り部分もあったので、それ以上台数を増やすことはできなかったし、驚異的なプレミアムが付いてもそれほど問題にならなかった時代でもあった。
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【PAO(パオ)/1987年発売/生産台数5万1650台】
Be-1の好評を受けて、第2弾として1987年に発売されたのがパオ。こちらもコンセプターの酒井氏がプロデュースしたクルマで、ミニ風と言われた丸みを帯びた2ボックススタイルから一転して、ワゴンタイプとなった。 モチーフはルノー・キャトルとされたが真偽のほどは定かではない。コンセプトとしては当時流行っていたブランド(今もあるけど)、バナナリパブリックのような旅行気分を味わえるものとされた。そのためか、車名はモンゴルの草原にあるテント状の家、包(パオ)に由来する。 販売台数は、Be-1での即完売を踏まえて、3カ月の受注期間内に受けたものはすべて生産するとしたため、約5万1650台となった。ちなみにこれはパイクカーシリーズのなかでダントツの台数となる。