あらためて「スカイラインの父」の功績を伝えたい!
スカイラインの父と呼ばれ、数々の伝説と伝説を築いたカリスマエンジニア「櫻井眞一郎」氏の逝去から2021年で丸10年。既成概念に囚われないフレキシブルな発想と優れた実行力、統率力でプリンス自動車/日産自動車/オーテックジャパン/S&Sエンジニアリングを渡り歩き、日本のモータリゼーションを牽引してきたひとりである。
熱血漢であり、ひたむきにクルマ作りに取り込むがゆえに、部下には厳しく接し、愛あるスパルタ指導が日常茶飯事であったそうだ。そのため、頑固で気難しい技術者というイメージが世間には浸透していたが、実際に会うと年齢問わず紳士的かつフレンドリーな対応で内面から優しさが伝わってきたものだ。また、熱のこもった受け答えは人を惹きつける魅力に溢れていた。
4代目ローレル(C31型)
欧州車に負けない質の高い走りを目指したアッパーミドルサルーン
6代目スカイラインであるR30型と兼任で、櫻井氏が開発に携わったのが4代目ローレル(C31型)だ。2、3代目のアメリカン基調なスタイリングから一変し、初代と同じ欧州テイストのデザインに回帰した。
Be-1
性能ではなくデザインで時代を刺激したレトロポップなパイクカー
R31型スカイラインの開発途中で病に倒れた櫻井氏。退院後は少量生産の特別限定車の開発に取り組んでいる。復帰後初の指揮を取ったのが日産初の「パイクカー」であるBe-1だ。コンセプトは時代に流されない、普遍的な価値を持った先端のクルマである。1985年の第26回東京モーターショーに参考出品され、大絶賛された。
MID4
幻となった日本初の本格ミッドシップスーパーカー
Be-1とほぼ同時期に開発に着手したのが、ミッドシップスポーツカーのMID4。最終的には生産されなかったが、仮に発売されていたらNSXに先駆けて日本初のミッドシップスーパーカーとなっていたのは間違いない。1985年のフランクフルトモーターショーにコンセプトカーとして出展され、同年の東京モーターショーにもBe-1とともに登場している。
1986年、櫻井氏のオーテックジャパンの社長就任とともにMID4プロジェクトはオーテックジャパンに移管され、開発が続けられた。
そして、1987年の東京モーターショーには第2世代のMID4-IIを発表。スクエアなフォルムだった1型に対して、曲線を活かした伸びやかでミッドシップらしい美しいデザインへと進化する。エンジンはターボ化(330ps/39.0kg-m)され、搭載位置も縦置きに変更されるなど本格スポーツに仕上がっていた。
オーテック・ザガート・ステルビオ
当時の日本車最高額を誇った日伊合作の超絶スペシャリティカー
オーテックジャパンの社長に就任してからも、主業務である特殊車両の開発だけでなく、日産時代から従事していた少量生産の特別限定車の製作やレストア事業(S&S事業部。のちにS&Sエンジニアリングに受け継がれる)にも力を入れていた。
ファインチューニングが施され、トータル性能を磨き上げた「オーテックバージョン」もそのひとつだが、究極といえるのがイタリアのカロッツェリアであるザガート社との協業で開発された、高級スペシャリティカーであるオーテック・ザガート・ステルビオだ。
ベースとなったのはVG30DETを搭載したF31型レパード。エンジンのファインチューン(255ps/35.0kg-m→280ps/41.0kg-m)やサスペンションの強化は、オーテックが担当した。ボディはザガートが担当で、当時としては珍しいカーボンファイバーとアルミを多用した流麗なボディを被せ、内装を仕立てた上で日本に運ばれ納車される流れであった。高価な材料の使用と複雑な生産工程を経て製造されたため、販売価格は当時の日本車における最高額となる、1780万円のプライスタグが付けられた。
デビューは1989年のジュネーブショーで、試作車3台を含めて203台の生産が予定された。バブルの好景気も後押しし、受注は好調であったが、ザガート社の架装作業の遅れとボディの仕上がりの悪さもあって、予定どおりの納車が叶わなかった。そのため、キャンセルが続出。外的要因でこのプロジェクトは失敗に終わり、オーテックとザガートの協業は断ち切れることとなる。