国民車「ビートル」の試作車を辿る
ドイツの国民車としてスタートし、“ビートル”の愛称で知られるフォルクス・ワーゲンType1は、国内だけでなく北米を中心とした輸出も拡大を続け、ドイツの戦後復興をけん引することになりました。1956年には累計生産台数が100万台を突破し、さらに1967年には1000万台、1972年にはT型フォードが持っていた1500万7033台を超えて世界記録を更新することになりました。
1978年にはドイツ本国での生産は終了しましたが、ブラジルやメキシコなど海外での生産が継続され、2003年にメキシコで最後のビートルがラインオフするまでに2152万9464台が生産されることになりました。これは4輪乗用車としての単一モデル最多量産記録となり、すべての乗り物に枠を拡げても、ホンダのスーパーカブ(2017年には1億台を突破!)に次ぐ2番目の記録となっています。
そのType1は、フェルディナント・ポルシェ博士が生涯をかけて開発したもので、完成するまでにいくつものプロトモデルが設計試作されています。ここではそんなType1に繋がるいくつかのプロトタイプを紹介します。
ポルシェ博士は小型経済車を作りたかった
130年を超えるクルマ……より正確に言うと内燃機関を持った4輪自動車の歴史のなかで、もっとも偉大な技術者のひとりとされるフェルディナント・ポルシェ博士。「技術の粋を集めたスポーツカー(レーシングカー)」や「生産性を向上させる農業用トラクター」とともに「大衆のための実用的かつ進歩的な小型経済車」の製作を生涯の目標にしていたと伝えられています。
シュトゥットガルトに本拠を構えたポルシェ博士は、これ以降、多くのメーカーからの依頼に応えてクルマを開発していきますが、やはりなかでも力が入っていたのは、3つの目標のうちいまだ完成していなかった小型経済車でした。
ポルシェ博士が設計事務所を興して1年後に、初めての大仕事が舞い込みました。クライアントはヴァンダラー社。自転車からオートバイ、そして4輪車へと進出してきたメーカーで、のちにアウトウニオンに参加して以降はミドルクラスを担当することになりました。
そんなヴァンダラーがポルシェ博士の事務所に設計を依頼したのはミディアムクラスの乗用車でしたが、これに応えたポルシェは1.7L直6エンジンを搭載したType W15を設計開発しています。
このType W15は発売されると好評を博したため、ヴァンダラーはさらにその上級モデルの開発をオーダーしました。ですが、ポルシェ事務所での開発が終わる前にアウトウニオンが誕生し、そこに参加したヴァンダラーはミディアムクラスに専念。結果的に第2弾が商品化されることはありませんでした。
試作車が3台製作されるも現存しないフォルクスアウト
ポルシェ事務所にとっては残念な結果となりましたが、そのタイミングで新たな、そしてもっと魅力的な仕事が舞い込むことになります。それが2輪メーカーだったツェンダップ社(Zündapp)からのオーダーで、ポルシェ博士が設計したかった小型乗用車の設計開発でした。
何故かクライアントからは星形エンジンを使用することが条件として提示されていので、小型経済車には水平対向エンジンがベストと信奉していたポルシェ博士もそれを呑んで設計したモデルがフォルクスアウト(Zündapp Vorksauto/Porsche Type 12)でした。
3台が試作車が製作され、厳しいテストが実施されましたが、本格的な量産に取り掛かろうとする段階でプロジェクトの中止が伝えられました。当初の構想を遥かに上まわる予算感に、クライアントが驚いた結果でした。
NSUプロトティープはフォルクス・ワーゲンType1の原型そのものだった
信奉していた空冷水平対向4気筒エンジンを新たに設計開発し、フォルクスアウトの基本パッケージをさらにブラッシュアップした車体に搭載してNSUプロトティープ(NSUPrototyp/Porsche Typ 32)が完成しました。
この鋼製ボディの1台のみが現存しており、フォルクス・ワーゲン社が本拠を構えるウォルフスブルクに開園した自動車博物館(というよりも、もはやクルマのテーマパーク!)のアウトシュタットに収蔵展示されてます。これも紛れもない技術遺産でしょう。
小型経済車のプロジェクトが大きく確実に動き始めた
ポルシェ博士と彼の設計事務所による、フォルクス・ワーゲンType1へのプロトタイプ設計試作のトライはまだまだ続きます。ただしここまでが技術的なトライだったのに対して、ここから先はより“政治的”な意味合いの強いトライとなっていきます。
そして、その行方を大きく左右したのが、当時ドイツで政権の座に就いた国家社会主義ドイツ労働者党、いわゆるナチスを率いていたアドルフ・ヒトラーの存在とその意向、でした。両者の出会いは、Pヴァーゲン(アウトウニオンのグランプリ・レーシングカー)がきっかけです。国威高揚の目的からそれを支援したヒトラーと、アウトウニオンからの依頼でそれを設計したポルシェ博士。
ヒトラーが提示していた国民車の条件をクリアしたVW3
ヒトラーの支援を受けたポルシェ博士の設計事務所は、国内全自動車メーカーが統合されて成立していたドイツ帝国自動車産業連盟(RDA)と契約を交わします。まずはVW3(Porsche Typ60)と呼ばれる一次試作車が5台製作されることになりました。
ヒトラーが提示していた国民車の条件が厳しく、当初は「(条件をクリアしたクルマなど)できるはずがない」と懐疑的だったRDAのメンバーも、実際にテストしてみると「意外に、悪くない」と肯定的な意見を口にするようになりました。ちなみに、VW3も現存していて、こちらもウォルフスブルクのアウトシュタットに収蔵展示されてます。
詳しく説明すると、このクルマを手に入れようと思ったら、まずはナチス労働戦線(DAF)の組合員となり、毎週の給料から5RM(ライヒスマルク。現在の貨幣価値にすると約22ユーロ=3000円弱)が天引きされ、それを証明するために配給されたクーポンを台紙に張っていく、というもの。
KdF-Wagenをベースにした4輪駆動システムを組み込んだ軍用車
さてもう一度プロトタイプに戻して話を進めていきましょう。VW30/60でテストを繰り返し、いよいよ量産計画にゴーサインが出され最終試作車のVW38は量産車として名前をKdF-Wagen(歓喜力行団のクルマ)と変えています。
基本設計が優れていたこともあって、こうした軍用モデルもその目的や使用形態に対して高い性能を発揮したようですが、結果的にポルシェ博士は戦後、ヒトラーに協力した戦犯として身柄を拘束されるなど不遇な時代を過ごすことになりました。