小型経済車のプロジェクトが大きく確実に動き始めた
ポルシェ博士と彼の設計事務所による、フォルクス・ワーゲンType1へのプロトタイプ設計試作のトライはまだまだ続きます。ただしここまでが技術的なトライだったのに対して、ここから先はより“政治的”な意味合いの強いトライとなっていきます。
そして、その行方を大きく左右したのが、当時ドイツで政権の座に就いた国家社会主義ドイツ労働者党、いわゆるナチスを率いていたアドルフ・ヒトラーの存在とその意向、でした。両者の出会いは、Pヴァーゲン(アウトウニオンのグランプリ・レーシングカー)がきっかけです。国威高揚の目的からそれを支援したヒトラーと、アウトウニオンからの依頼でそれを設計したポルシェ博士。 両者はここで出会い、博士が自ら考える“国民車構想”を時の運輸大臣に提出。それがヒトラーの目に留まったことで、両者の関係は一層緊密になっていきました。もともとクルマに対して並々ならぬ関心を持っていたヒトラーも、こちらは人民の心を掌握することを主目的として、国民車構想を持っていましたから、まさに両者の思惑が一致。博士が目指していた小型経済車のプロジェクトは、ここから大きく確実に動き始めたのです。
ヒトラーが提示していた国民車の条件をクリアしたVW3
ヒトラーの支援を受けたポルシェ博士の設計事務所は、国内全自動車メーカーが統合されて成立していたドイツ帝国自動車産業連盟(RDA)と契約を交わします。まずはVW3(Porsche Typ60)と呼ばれる一次試作車が5台製作されることになりました。 最初に完成した2台はリムジーネ(セダン)とカブリオレでしたが、これをRDAのメンバーが評価にかけ、さらに追加で完成された3台は実走テストに供されました。
ヒトラーが提示していた国民車の条件が厳しく、当初は「(条件をクリアしたクルマなど)できるはずがない」と懐疑的だったRDAのメンバーも、実際にテストしてみると「意外に、悪くない」と肯定的な意見を口にするようになりました。ちなみに、VW3も現存していて、こちらもウォルフスブルクのアウトシュタットに収蔵展示されてます。 VW3に次いで二次試作車としてVW30(Porsche Typ60)が30台製作され、今度はドイツ全土から無作為に選ばれたヒトラーの親衛隊メンバーによって実走テストが行われました。全走行距離はのべ240万kmにも達しています。そこからさらに三次試作(VW60と呼ばれていますが、基本的にはVW30と同様だったようです)として30台が製作され、こちらはさまざまなプロモーションに利用されることになりました。 ここまでくると、理系の技術者ではなく、文系のプロモーショナーの仕事となります。その多くは割愛させてもらいますが、ひとつだけ、見逃せないプロモーションについて少し触れておきましょう。すべての国民にクルマが行き渡るように、というのがヒトラーの掲げた目標でしたが、それを実現するためにヒトラー/ナチスが行ったキャンペーンが“天引き貯金”でした。
詳しく説明すると、このクルマを手に入れようと思ったら、まずはナチス労働戦線(DAF)の組合員となり、毎週の給料から5RM(ライヒスマルク。現在の貨幣価値にすると約22ユーロ=3000円弱)が天引きされ、それを証明するために配給されたクーポンを台紙に張っていく、というもの。 そもそもの価格設定が990RM(約4300ユーロ=60万円弱)だったため、4年弱の積み立てでクルマが手に入る計算は成り立つのですが、結果的には第二次大戦に突入したことで約束は反故にされてしまいました。