アバルトのイタリアンパワーも炸裂し天下取りはフィアットへ
この「ラリースペシャル」ストラトスに、真っ向から勝負を挑んだのが同じイタリアメーカーのフィアットだった。フィアットは、量産モデルの124スパイダーをベースにアバルトと共同で124アバルト・ラリーを開発。当時のWRC最上位規定であるグループ4を念頭に作られたモデルで、1756ccの4気筒DOHCエンジンを搭載する。1974年、1975年の2シーズンWRCに投入され、ランチア・ストラトスとやり合った末に、2年連続でメイクスランキング2位に惜敗する結果となった。
ただ、この124アバルトの後継として登場する131アバルトが、ランチア・ストラトス撤退後のWRCで、フィアットグループのラリー活動を担う主役として活躍することになろうとは、誰も予想し得なかった。 創業者のヴィンチェンツォが有能なレーシングドライバーでもあったランチアは、戦前からモータースポーツに積極的な関与を見せ、戦後もラリー活動を展開していた。だが、1969年にフィアット社の傘下に組み込まれる流れをたどっていた。
こうした意味では、同グループ企業のランチアとフィアットが真正面から戦ったこの時代のWRCは興味深い事態だった。だが、3年連続でタイトルを獲得したランチアは、サーキットレースに新たな活路を見出し、WRCはフィアットに任せて転出することになる。
英国からコスワースで討って出たフォード・エスコートRS1800
131アバルトのWRCデビューは1976年。レギュラー参戦ではなかったが、早くも1000湖ラリーで初勝利を挙げると、翌1977年はフィアットグループを代表してWRCに臨むことになり、参加全11戦中で5勝をマークする。しかし、ライバルのフォード・エスコートRS1800もシリーズ4勝と1歩も引かぬ走りを披露。上位8戦分の有効ポイント制で争う選手権は、フィアット136点、フォード132点と超僅差の戦いになっていた。
131アバルトは、1.3L/1.6Lエンジンを積むフィアットの小型3ボックスセダン131をベースにする車両で、これに1995ccの直4DOHCエンジンを積むラリースペシャルを意図する高性能モデルだった。この時期のWRCは、量産車をベースとしながら後の大がかりな改造により、市販車とは異なる高度なメカニズムを持つ車両同士の戦いとなっていた。 この端的な例が、131アバルトの強力なライバルとなったフォード・エスコートだった。本来は1100cc/1300ccのエンジンを積む小型車としてヨーロッパ・フォードが開発したモデルだったが、コルチナの例に倣い、コスワース社が開発した4バルブDOHCエンジンを搭載する特殊モデルとなっていた。いわゆるBDAエンジンで、最初期モデルのマーク1では1600ccだったが、第二世代のマーク2で1975ccに排気量を拡大。エスコートへの搭載はFRモデルのマーク2までだったが、もともとが2L規定のF2用として開発されていただけに、強力なエンジンで知られる131アバルトをも軽く凌駕する。エスコートはこの強力なエンジンに支えられ1979年のWRCタイトルを獲得していた。