日産バイオレットはヨーロッパ遠征で暴れる
この131アバルトとエスコートRS1800の全面対決は1980年まで続いたが、この両車に割って入る形で存在感を示したのが日産バイオレット(PA10型、ダットサン160J)だった。 当時の日産は、日本サイドはサファリラリーに重点を置く活動体制で、WRCはチーム・ダットサン・ヨーロッパが受け待つかたちとなっていた。いわゆる準ワークスの体制だったが、グループ2仕様のL20B型SOHCエンジンを使いながら、バランスと耐久力に優れた完成度の高さを武器に、1979年はフォードに次ぐシリーズ2位、1980年もフィアットに次ぐシリーズ2位と、WRCに日産ありの印象を強く植え付けていた。 なお、バイオレットは、グループ2仕様の車両で1979年、1980年、4バルブDOHCのLZ20B型に積み替えたグループ4仕様の車両で1981年、1982年のサファリラリーを制覇。同一イベント4年連続優勝という金字塔を打ち立てていた。
下克上的混戦のシリーズもあった競技車両規定の変革期
混戦となった1981年は、伏兵タルボ・サンビーム・ロータスがタイトルを獲得。優勝は1回だけだったが、2位4回、3位1回、4位1回の安定した上位成績が勝因となっていた。タルボ・サンビームはクライスラー・ヨーロッパが企画した小型2ボックスカーで、これに2174cc4バルブのロータスツインカム(911型エンジン)を搭載する車両だったが、タイトルを獲得した1981年時点では、タルボのブランドはPSA・プジョーシトロエンの所有下にあった。 そしてグループ2/4規定の最終年となる1982年は、新規定グループBとの共存期間として設定された。新鋭アウディクワトロのターボ4WDと、グループ4規定車両オペル・アスコナ400の自然吸気エンジン+FR方式の一騎打ちとなった。 アウディクワトロは、センターデフを持たない直結4WDの方式だったが、低μ路で高いトラクションを発揮する4WD方式と高出力・高トルクを発生するターボエンジンの組み合わせで、瞬発力やコントロール性のよさを身上とするFR方式を力で制する形となっていた。この年、メイクスタイトルはアウディ、ドライバーズタイトルはアスコナ400のヴァルター・ロールが獲得し、勝敗をつければ1勝1敗の引き分けだった。 アウディ・クワトロは、市販車のメカニズムとして4WDが安定性、安全性が高い方式としてかねてよりアウディが提唱した駆動方式で、日本のスバルが同様の思考で乗用車作りに取り組む時期と重なっていた。
一方のアスコナ400は、グループ4規定全盛時にオペルが先発メーカーに対抗しようと企画したグループ4公認取得モデルとして1980年のWRCでデビュー。車両内容としては優勝を狙えるレベルにあったが、開発度でアバルト131、タルボ・サンビームにいま一歩およばず、熟成度が進んだグループBへの移行期に、アウディと雌雄を決するかたちになったものだった。
それにしても、アウディクワトロが扉を開けたグループBの時代は、その後誰も予期せぬ超高性能時代へと突入し、悲惨な結果を招いた末にグループA規定に集約される道のりを歩んでいくことになる。