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なぜ日本の道路より広く感じるのか? 速度無制限区間が存在するドイツの「アウトバーン」の歴史を紐解く

世界中のクルマ好きが注目する有名な高速道路の代表格

 アウトバーン、聞きなれた言葉だがドイツ語でAutobahn、自動車を意味するアウトと車道や車線を意味するバーンからなる単語である。日本の高速自動車国道に相当することは周知の通りだ。

 今回は、ドイツ・アウトバーンの思想をテーマに、その歴史背景と目的地にもっとも速く、快適に到着するというドイツ独自の合理主義にスポットを当て紹介する。

自動車王国を造り出したアウトバーンはヒットラーの遺産

 現アウトバーンの礎は、独裁者ヒットラーの遺産と言える。ドイツのインフレーションは戦後の現象と思われているが、実際には第一次大戦とともに始まっていた。1933年1月30日に政権を獲得したナチスのヒットラーは、自動車時代が到来することをすでに予測していた。

 早速、同年9月23日に7.6mの道路幅で4車線というアウトバーンの建設が、ヒットラー自らの鍬入れによって始まり、猛スピードで進められた。とくに、このアウトバーン起工式でヒットラーは国民に演説をし、1934年春には60万人の建設労働者が「アドルフ・ヒットラー道路」建設に動員された。

 この大プロジェクトは失業者救済に貢献したと言える(当時は600万人の失業者を抱えていた)。つまり、国内経済を賦活させる施策であったのだ。結果、6500kmの道路網建設計画のうち、ヒットラー時代には3500kmが完成し、ドイツの冠動脈しての機能を果たしていた。

 とくに、ナチスは道路建設において景観を重視。森の稜線に沿って、風景を楽しみながら快適にドライブができるように配慮された。これはある意味において、人間工学に基づくものであるが、ヒットラーの場合、全体主義の美学が根拠になっていた。

 その例として、ナチスは党大会や集会を一糸乱れぬ優雅な隊列を組んだが、これはヒットラーが観閲する形を想定して展開された。この構図は、秩序好きなドイツ人の国民性を背景にしており、正しいナチス体制の縮図だ。このような全体統一主義の思想が、アウトバーンの建設でも適用されたと言える。その演説も力の論理で実施された。

 戦後の西ドイツは道路行政において、ヒットラーの遺産を継承した。破壊されたアウトバーンを修復・拡張することによって、動脈は西ドイツの戦後の急速な経済復興の原動力としての役割を果たしている。こうしてアウトバーンは自動車産業にとっても、大きな需要を生み出す原動力になった。経済発展とともにドイツはアウトバーンを益々延長・拡大し、今や主要都市を結び、網の目のように張り巡らしている。総延長は、約1万3000kmにもおよんでいる(2020年)。

アウトバーンでの世界スピード記録挑戦(1936~1938年)

メルセデス・ベンツとアウト・ウニオン

 ヒットラーが自動車レースに力を入れたのは、モーターレースこそドイツの工業力を世界に示し、併せて国家意識を高揚する最適の道具と考え、これまでのすべての記録を打ち破って、ドイツの優秀性を内外に誇示しようとしたのは明らかだった。つまり、ドイツのメルセデス・ベンツとアウト・ウニオンに資金援助をし、レースではこのドイツ両車が圧倒的勝利を獲得した。

 ドイツ車の耐久性、性能、安全性はアウトバーンによって向上する。とくに危険な世界スピード記録挑戦では、クルマの高速性能が最大限発揮できるアウトバーンが利用された。

 1936年に入るとメルセデス・ベンツはV型12気筒、4.8L 540psエンジンを搭載したほぼ完璧に近いストリームライン・レーサーを造った(W25ベース)。1936年10月と11月にアウトバーンのフランクフルト~ダルムシュタット間(1935年開通)において、名手ルドルフ・カラッチオラはクラスB(5L~8L)でフライング・キロメーター364.4km/h、同マイル・366.9km/hを含め計6つの世界記録を樹立、最高速度は371.9km/hを記録した。

 当時のレースで、同じドイツ勢としてメルセデス・ベンツのライバルだったのはアウト・ウニオンであった。アウト・ウニオンは「ホルヒ・アウディ・ヴァンダラー・DKW」が合併した会社で、何よりも主任設計技師であったフェルディナンド・ポルシェ博士の努力によってできた会社だ。

 ポルシェ博士はアウト・ウニオンの設計を任されると(ポルシェの頭文字を取りP・ワーゲンと呼ばれた)、当時のGPマシンの常識をすべて無視してエンジンはミッドシップに配置した。

 世界記録の話に戻るが、ライバルのベルント・ローゼマイヤーが乗るアウト・ウニオンのストリームライン・レーサーは、1937年に406.3km/hの記録をマークした(タイプCストリームライン)。そこで、メルセデス・ベンツとカラッチオラはその面目に賭けてもこれを打ち破らなければならない破目になった。

 ダイムラー・ベンツ社の技術陣は、1936年のストリームライン・レーサーのV12エンジンを5.67L、736psにまで拡大し(W125ベース)、このマシンでカラッチオラは1938年1月28日、フランクフルト~ダルシュタット間の完全に平坦なアウトバーンでフライング・キロメーター432.69km/h、フラインング・マイル436.36km/hというクラスB(5L~8L)の大記録を樹立した(これは現在に至るまでの公道上で出された最高の速度で破られていない)。

 この情報はすぐにアウト・ウニオンチームにも届き、即刻アウト・ウニオンのストリームライン・レーサーとドライバーのベルント・ローゼマイヤーが、メルセデス・ベンツの世界記録に挑戦した。しかし、ベルント・ローゼマイヤーは横風にあおられてマシンは大破し帰らぬ人となり、アウト・ウニオンのさらなる再挑戦には至らなかった。

フェルディナンド・ポルシェ博士とフォルクスヴァーゲン

ヒットラーの国民車構想

 フォルクスヴァーゲンとはドイツ語でVolkswagen、国民車の意味であることは周知の通りである。

 1934年にフォルクスヴァーゲン社の前身が産声を上げ、すでに1937年には30台の試作用フォルクスヴァーゲンが製造され、1938年に第1号車が誕生した。その生みの親はポルシェ博士とあの独裁者ヒットラーである。ヒットラーは自らの政策の具体的な成果のひとつとして、高嶺の花であった自動車を大衆の誰もが所有することのできる、いわゆる国民車構想を打ち出した。

 つまり、1000マルクで購入できる国民車構想を打ち出し「自分のクルマを運転したいのなら、週5マルク貯金を」というスローガンが提唱された。ヒットラーはポルシェ博士に“簡単な構造で頑丈かつ、できるだけ軽量な”国民車の製作を依頼した。ポルシェ博士は長年の夢であった小型車の国民車造りに情熱をかけ、研究に没頭した。この小型の国民車はリヤエンジン、空冷、4人乗り、軽量、流線型という当時としては画期的なアイデアであった。

 ポルシェ博士はこのフォルクスヴァーゲン・プラモデルを1938年ヒットラーの誕生日にプレゼントし熱心に説明した(ナチス幹部室内)。1936年に第1号試作車が製作されて以来、カブトムシという愛称で親しまれたこの国民車は、元来ヒットラーによってKraft durch Freude(KdF=歓喜の力)と名付けられた。

 この国民車キャンペーンは、大衆に車の夢を抱かせたが、ヒットラーの野心的な計画でもあった。結果、1939年9月1日にポーランド侵攻を機に戦費となって消えていった。しかし、戦後本来の国民車に戻り、1車種で2100万台を突破する世界記録を樹立した。

 アウトバーンもフォルクスヴァーゲンも両方とも今日、華々しい姿を残しているが、当時これを足もとに従えていたのがヒットラー自身であった。追い込められた政局に屈せず、さらに見栄を張り、国民に自家用車を与えようと煙に巻きあげたこの独裁者ヒットラーは、自国の造る最上級の770Kグロッサー・メルセデスに乗って君臨した。

アウトバーンの速い者が優先する思想と秩序

 アウトバーンは目的地にもっとも速く、快適に到着するというドイツ独自の合理主義に基づいている。

 設計速度を決定する最大の要因のひとつに、道路のカーブの大きさと勾配変化がある。つまり、多くの場合、前方の見通し距離によって設計速度の値が支配される。日本の高速道路設計速度の最高値は120km/hとされている。一方、原則として速度無制限が認められているドイツのアウトバーンの“設計速度”はといえば、意外にも日本と同様に120km/h。しかし、ドイツの交通関係者は、設計速度以外に“安全速度”という言葉を用い、アウトバーンの安全速度は180km/hとしている。

 元来、ドイツのアウトバーンは無制限に速度を上げても安全にドライブできるように勾配を少なく、カーブは緩やかなラインになるように初めから設計されており、とくに勾配は原則的に4%以内に抑えられている。また、アウトバーン設計時に航空機の発着を想定したため、舗装の厚みが平均約75cmと広大なアメリカの高速道路に比べて約2倍厚い。高速道路にかける予算もアメリカの約2倍と言われている。

 日本の高速道路のアスファルト舗装と違って轍がなく、ハンドルがとられることなく安全で、タイヤノイズが少なく快適なドライブを楽しめる。一方、日本の高速道路は、産業道路としての要素が多く、トラックによって造られた轍が残っている。その轍が安全で快適なドライブに悪影響をおよぼしていると言える。

 アウトバーン車線の幅が日本の道路よりも広く感じるのは、視界に圧迫感を感じないことにある。アウトバーンの車線幅は3.75m~4mで、日本の高速道路の車線幅3.5m~4m(一部3.75m~4m)とほぼ同じである。しかし、アウトバーン走行で実際の数字以上に車線の幅を広く感じるのは、基本的には周囲の土地と同じ高さになっているからだ。

 つまり、本線のすぐ横は、ぶどう畑、農場や森、そしてその向こうに見える丘も「自分と同じ高さ」で広がり、拡大された視野が数字以上に車線の幅を広く見せているのだ。一方、日本の高速道路は、それ以外の道路あるいは地面と高さを異にしており、立地条件の違いからくる印象が大きくなっている。

 アウトバーンでは、速い者が優先される思想が徹底して守られている。これは、交通文化が発達していく過程で造られてきた、ドライバーたちの絶対のルールから成り立っている。しかも道路構造的にも速い者が優先される仕組みだ。つまり、高速車は左側の追い越し車線へ、中速車は第ニ車線で走行する、貨物車は最高速車線には入らないなど、走行状況に応じた車線の原則を遵守する。

 ドイツのアウトバーンといえば、とかく日本では速度無制限が強調されがちだが、実態は複雑。速度は「速度制限区間」、「天候や工事による一時的な速度制限区間」、「速度無制限区間」の3つが存在し、「速度制限区間」の割合は約2割、「速度無制限区間」は約7割となっている(2017年時点)。近年では環境負荷低減で速度制限区間はさらに伸びつつある。

アウトバーンと危機管理

 アウトバーンで事故が起こると、被害は甚大であることは周知の通りである。スピードを出すのは自己責任であるとはいえ、個人にすべてを課すのではなく、ドイツでは緊急体制を完備させている。

 通常の事故や故障の場合、電話連絡するとADAC(ドイツ自動車連盟)が対処する。大事故に備えて、早くから最短時間で現場に到着できるヘリコプター救急体制づくりに取り組んできた。1970年から救急医、ヘリコプターと病院を連携した救急体制を整え、死亡事故を1/3に減少させたのは今も語り草になっている。

 これはドクターヘリと言われているが、もちろんアウトバーン専用でもない。ヘリコプター・ステーションは原則として、通常朝7時から待機体制を整えている。応援が必要な場合は他のステーションからも飛行してくる。病院を拠点とした救急センター、医者、救急隊がシステマテックに連携を取っているからである。

 ドイツは人命にかかわる事は最優先に対応し、徹底的に最善の体制づくりをしている。ヘリコプターの救急出動に際し、ドイツの費用は社会保障費によって賄われている。また、病院の治療費などは健康保険によって支払われ、公共事業は公費負担の原則が貫かれていると言える。アウトバーンを巡る危機管理制度も、ドイツの思想を色濃く反映しているのだ。

 ドイツの自動車産業はもちろんのこと、流通業や旅行会社など、多くの産業の礎となったアウトバーン。新型コロナのパンデミック以降、感染を恐れて自家用車を利用する人が増加している。さらに、今後は脱炭素を踏まえて、EVや自動運転に対応した「スマート道路」へと変化する事が求められている。

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