昔のニスモは今と雰囲気が違った? 当時を振り返る
編集長より「昔のニスモは今と少し雰囲気が違っていたように思うんです。クルマ好き、走り好きのスタッフが多かったというか。商品でも、ある意味異色なR32/R33GT-R用の最高速用のギヤセットもありましたよね」という。実際、当時と今ではどう違うのか、その辺を書いてもらえないかというのだ。
日産のスポーツブランドにおけるリーディングカンパニーNISMO
ニッサン・モータースポーツ・インターナショナル株式会社という、じつに文字数の多いメディア泣かせの会社名を持つNISMO(ニスモ)は、その名の通り日産自動車の100%子会社。日産自動車のモータースポーツ活動およびアフターマーケットパーツの開発・販売を行う、いわば日産のスポーツブランドのリーディングカンパニーである。
ニスモが設立したのは1984年の9月17日のこと。日本のモータースポーツを発展させるとともに、日産車ユーザーの願いを叶えるために誕生した会社である。
じつはニスモ創立以前、日産にはふたつのモータースポーツ活動拠点があった。ひとつは“大森ワークス”の名で知られたユーザーサービスも含めた旧・日産自動車宣伝3課。
そして、もうひとつは“追浜ワークス”としてワークス活動を主体とした旧・特殊車両実験課のふたつである。
ニスモはこのふたつのワークス部門を統合する形で生まれた。
バブル前夜、クルマ好きの若者が続々とニスモに入社
設立当初は、ふたつのワークスから人材が出向する形で業務をスタートした。ニスモとして初の新入社員13名(男女含む)を迎え入れたのは、2年後の1986年のことだった。
以後、グループC、グループAという大きなレース活動を基本に業務を拡大。それに伴い、毎年のように若き新入社員を迎え入れ、ニスモは順調に業績を伸ばしていった。
この時代の新入社員といえば、クルマやバイクに情熱を傾けた青春時代を過ごしていた若者が多かった。ましてやニスモのようなモータースポーツ専門の会社に入社を希望するとなれば、その筋では濃すぎるような連中ばかりだった。
ときはバブル時代を迎える直前。景気が悪くなるなど微塵も感じなかった時代である。ニスモに入社した若者も、東京近郊の峠やストリートを毎週土曜日の夜に走り回っていたヤツもいた。またラリーやダートトライアル、あるいはレースに参加している奴もいた。
休日にはそんな社員仲間が集まり、ミニサーキットを借り切って走行会&BBQ大会を楽しんだりもしていた。
キラ星のような名車が数多く誕生した時代だった
さらに1990年前後といえば、日産自動車からは走り系の面白いクルマが数多く登場していた。R32スカイラインやS13型シルビアのほか、U12型ブルバードSSS-R、K10型マーチR、さらにB12型サニーVRにN13型パルサーR1ツインカムなどの競技専用モデルも数多くラインアップされた時期である。
さすがにR32スカイラインGT-Rは、当時のニスモ社員には高くて手が届かなかったが、クルマ遊びをするにはこと欠かない時代だった。
当然、当時のニスモ社員もこうしたクルマのほか、旧型のHR31型スカイラインGTS-RやZ31型フェアレディ300ZXターボに乗っている奴もいた。さらには、あろうことか業務上はライバルとなるメーカーのトヨタ・カローラレビン&スプリンタートレノ(AE86)やスターレット(KP61)、三菱ギャランVR-4などに乗っている不届きな連中もいた。確かに当時のニスモスタッフは、クルマ好きが多かったかもしれない。
設立当初のニスモはレースやラリーといったモータースポーツ専門だったニスモだが、グループCとグループAというメインカテゴリーが消滅した1994年ごろから、それまでとは異なるチューニングパーツ市場に本格的に参入をはじめた。
異色の「最高速トライアル用ファイナルギヤセット」も発売
そんな時代にR32GT-R用の最高速トライ用ファイナルギヤセットという異色の商品が存在した。当時、谷田部で行われていた最高速トライアル用のファイナルギヤセットである。
R32GT-Rの純正ファイナルの4.111では、計算上300km/hで7500rpm以上まわってしまう。そこで3.900、3.700、3.500という通常のレースでは使うことのないファイナルギヤセットが生まれた。ちなみに3.500なら300km/h時に6500rpm付近で、エンジンパワーがついてくれば300km/h以上は可能だ。これらは、この時代のニスモ総合カタログにさりげなくR33GT-R用としても掲載されていた。
ことの経緯は、日産自動車の社員であったX氏が、かつての上司(当時はニスモに在籍)を頼って最高速トライ用のファイナルギヤセットを作ってほしいとやってきた。氏曰く「自分たちのルールで、ノーマルのエンジンルーム、ノーマルのミッション。タービンもツインターボだが純正NISMOタービンという縛りにしている。谷田部で300km/h以上出すためにはどうしても必要なのだ」と熱弁する。
余談だが、R34GT-Rはゲトラグ社製の6速トランスミッションを採用し、そのファイナルギヤは3.545だった。R32GT-Rと同じ4.111ならサーキットでクロスレシオ化され小気味良い走りを連想させるが、300㎞/hオーバーを実現する仕様が選択されていた。
社会環境は大きく変わってしまったが
では、今のニスモはどうだろうか。
21世紀を迎える2000年代になると、日本の大手企業は経営効率を優先する時代となった。それまではニスモにも協力的だったサプライヤーも経営効率を優先し、ニッチマーケットであるモータースポーツパーツやチューニングパーツを敬遠する時代になったのだ。加えて企業のコンプライアンスが重視される時代。ひと言で言えば、数の少ないチューニングパーツは作りにくい世の中になったのだ。1990年代とはニスモと取り巻く社会環境は、大きく変わってしまったのである。
そんなクルマ好き、走り好きにとっては世知辛い世の中になった21世紀。かつての新入社員も間もなく定年の時期を迎える。一方で若手の新入社員のなかには、やっぱりクルマ好き、走り好きが多い。昨今、若者のクルマ離れが叫ばれるなか、モータースポーツ専門会社を目指してくるのだから、当然といえば当然。ドリフトを楽しむ奴、ミニサーキットでグリップを楽しむ奴。実際、ニスモの走行イベントでも速いタイムで走る若手社員もいる。その点では、クルマ好きの集団というDNAは変わっていないように思える。ただ、モノづくりの環境が大きく変わったということではないだろうか。