いすゞ製の乗用車に我々はなぜ心惹かれるのか
中期経営計画として経営リソースを得意分野の商用車、RV車、ディーゼルエンジンなどに集約し競争力の強化を図るため、乗用車の生産を中止(1998年12月4日、いすゞ藤沢工場、生産累計台数1000万台達成時のプレスリリースより)したのが1993年。2002年には国内の乗用車販売もすべて中止、最後までOEMで残っていたアスカ(2代目はスバル・レガシィ、3、4代目はホンダ・アコードがベースだった)もなくなった。
幻の……といったら、世の中にはもっと幻のコトやモノはいくらでもあるが、少なくともクルマ好きにとって“いすゞの乗用車”といえば、今はもう新車では乗ることはできない、幻のクルマでありブランドだ。「胸につのる想い」は、ロッド・スチュワートのバラード「You’re In My Heart(The Final Acclaim)」の邦題だが、いまだにいすゞの数々の名車に想いを寄せる人が多いのも、想いを寄せることでいつまでも記憶に留めておきたいから、なのかもしれない。
そんななかで3代目ジェミニは、SUV以外のいすゞの乗用車系では最後の自社開発車となったモデルだった。1985年に登場し人気を集めた初代FFジェミニの後継モデルとして登場したのが1990年。
手元にある「自動車ガイドブックvol.37・1990-91」のページをめくると、このときすでにいすゞの乗用車は、初代レガシィベースのアスカ(とヤナセ版のPAネロ)とこの3代目ジェミニのみ。前年の号ではまだ載っていた初代ピアッツァは、すでにドロップしていた。
意欲作だったが短命に終わった佳作
この3代目ジェミニだが、2代目のFFジェミニがそうだったように、まったくのいすゞオリジナルの新型車として開発された。スタイリングは丸みを帯びたユニークなものだったが、このカプセル・シェイプは当時のいすゞのデザイン・フィロソフィを極めたもの。
ボディバリエーションは1990年3月にまず登場したセダンを追って、同年9月にクーペ、1991年3月にはロングルーフのハッチバックが登場した。
クーペとハッチバックには複数のフロントフェイスが存在
ところでここで改めておきたいのが、クーペ(とハッチバック)には“複数の顔”が存在していたということ。当時GMが北米市場でコンパクトカーを扱うブランドとして“Geo(ジオ)”を展開しており、このブランド向けに用意されたのがジオ・ストームだった。このモデルには初代ピアッツァ方式のセミリトラクタブルの角型4灯ヘッドランプを装着(後にフェイスリフトを受けて非リトラクタブルの別の顔になった)。またこのクルマは、1990年5月には日本でもヤナセ専売モデルのPAネロとして発売されている(ハッチバックのPAネロ・イルムシャーの発売は1992年)。
こちらのマスクは北米仕様のいすゞ・インパルス、およびカナダ仕様のアスナ・サンファイアと共通だった。ややこしいが整理しておくと、要するにクーペにはセダンとは別デザインのクーペ専用のジェミニ顔、PAネロ顔(日本では1種類だったが北米市場ではマイナー後、1992年の東京モーターショーで参考出品されたジェミニ・ウイザードの顔……を入れた2種)、そして2代目ピアッツァ顔の、計4タイプが存在したことになる。なお北米ジオ・ストーム(=PAネロ)の顔つきは当時のGMの意向を受けてデザインされたもので、いすゞ社内では「ミニ・カマロ風」と言われていたとか。
「ニシボリックサスペンション」とは何か
インテリアはモダンなファニチャー感覚のシート、オーガニックカプセルタイプクラスター&スイッチ(1987年のショーモデル、COA-IIIにその原形が見られた)などが特徴。標準車のディーゼルターボエンジン搭載車には、温風が早く得られるセラミックヒーターを採用した。
また2代目で登場したイルムシャーとハンドリング・バイ・ロータスは、3代目では当初から設定。イルムシャーのフロントのバッジは、いすゞのロゴマークではなく“i”が装着された。
スタイルもメカニズムも十分に意欲作だったが、登場から僅か3年4カ月で生産終了に。いかにも短く終わった名車だった。