カウンタック日本1号車を知る生き証人
どの分野にも、この人を抜きにしては語れないという伝説的人物がいる。クルマの世界にも多数のレジェンドが存在しているが、ヴィンテージスポーツカーの総合ディーラーとして知られる「キャステルオート」代表の鞍 和彦さんもそのひとりだ。 鞍さんといえば、1974年にシーサイドモーター(かつて横浜市に存在したランボルギーニやマセラティの日本総代理店)に入社したリビングレジェンドである。1951年生まれなので、現在70歳。人もクルマもイベントも栄枯盛衰であることを自身の経験から熟知している、人生および自動車趣味生活の大先輩だ。
鞍さんはスーパーカー好きであれば、誰もがその名を見たり聞いたりしたことがある御大だ。令和の今だからこそ伺っておきたい話が山ほどあるが、今回はランボルギーニの歴史を語る際に忘れることができない「カウンタック LP400」の日本初上陸前後のエピソードについて語ってもらった。
カウンタックのプロトモデル登場から50周年
何ゆえにカウンタックをフィーチャーしたのかというと、去る2021年8月13日にランボルギーニから新型ハイブリッド・リミテッドモデルの「カウンタック LPI800-4」が発表。さらにカウンタックがいまからちょうど50年前に、プロトタイプの“LP500”として初公開されたことが各方面で再注目されているからだ。 なお、新型モデルは鞍さん的にはピンとこない存在……とのことだったので、本稿では何も記さないようにする。
カウンタックと聞いてもプロポーションをイメージすることはできなかった
スーパーカーブームは、1975年に週刊少年ジャンプでの連載が開始された、池沢早人師氏による漫画「サーキットの狼」の爆発的人気をきっかけとして巻き起こった。カウンタック LP500が登場したのは1971年のことで、鞍さんがシーサイドモーターに入社したのは、既報のとおり、1974年のことである。まず、そのような時系列を頭のなかで整理しておいていただきたい。「シーサイドモーターに入社したのが1974年4月で、そのころすでにランボルギーニのエスパーダやハラマやミウラやウラッコを扱っていましたが、1971年に登場したカウンタック LP500に関する情報は何もなかったです。だから、カウンタックという名の新しいランボルギーニのプロポーションをイメージすることはできなかった。極端なウェッジシェイプで、スイングアップドアを採用しているとか、そういった外観上の特徴があることなんて、まったく想像できませんでした」 えっ? あのシーサイドモーターでさえ、そんな感じだったの!? と思っていたら、鞍さんがふたたび話し始めた。
「1974年の10月にシーサイドモーターの新社屋が竣工したころ、ようやく仕事に慣れてきて部品課に配属されました。新社屋は1階にショールーム、2階に工場があって、鞍は2階で部品をやれって言われたんです。それで部品課にいた1974年の暮れごろに、黒メタのカウンタック LP400がイタリアから東神奈川の埠頭に入ってきたので、シーサイドモーターの松沢社長、工場のフロントマン、メカニック、そして私という4人で取りに行きました」
野ざらしで置かれていた1号車
「初めて実物を見たカウンタック LP400は、ボディが真っ黒で、地べたに這いつくばっていましたね。スーパーカーの上陸地点だったこの場所、保税倉庫とはいえ屋根なんかなく、地面が土で、ぺんぺん草が生えている舗装されていない一角でした。そこに20台ぐらいのフェラーリやマセラティなどを野ざらしで置いていたことがありましたね」
当時、まだ鞍さんは売り物のスーパーカーに触れられるようなポジションではなかったらしく、工場のフロントマンとメカニックが黒メタLP400のエンジンを始動するまでの過程を近くで見ていたそうだ。一発でかかった……と記憶しているらしいが、「あのとき、ブースターケーブルを使ったのかもしれない」とは鞍さんのコメントだ。 日本上陸1号車である黒メタLP400は、松沢社長のレース仲間だった安田銀二さんという方が購入していった。「この写真は1975年の春ごろと思いますが、このときすでに会社には大勢の子どもが“現物”をひと目見ようと押し寄せていました。マフラーが車検用の触媒付きに変えられているのに注目」