スーパーカーブーム前のカウンタックは不人気だった!?
「黒メタのカウンタック LP400は、当時2000万円ぐらいだったのかな。1974年の年末までに車検を取って、安田さんに納車しました。1975年になってからだったと思いますが、晴海で開催された外車ショーに安田さんからお借りして展示したのですが、まだスーパーカーブームが巻き起こっていないタイミングだったので、皆さんのリアクションが薄い……といった感じでした」
「このクルマはボディカラーが地味だった……ということも無反応だったことに関係していますかね。まだこのころは私たちも、スーパーカーの雄姿を写真で後世に伝えることに興味がなかったので、一生懸命撮りませんでした。その後、サーキットの狼の影響で本当にスーパーカーが実在するんだ! 横浜に行けば実車を見られるぞ!! といったような感じになり、われわれもスーパーカーの写真をたくさん撮るようになりましたけどね」
今となっては見られるだけでもすごいことなのに、スーパーカーブームが訪れるまでは不人気だったということに驚きを隠せない。
目の前でカウンタックとトラックが事故! というアクシデントも
「そういえば、2日間の外車ショーが終わり、安田さんが黒メタのカウンタック LP400で晴海から帰るときにホンダ・シビックで後ろからついて行ったら……。もう時効なので話しますが、銀座4丁目の交差点で安田さんがスイングアップドアを開けて、吸っていたタバコを指先ではじくようにして投げ捨てたんです。いまだったらポイ捨てはダメですが、当時はその姿がカッコよく見えましたね」
「あと、シーサイドモータ―のメカニックが黒メタのカウンタック LP400に乗って工場から出庫するときに、少しだけ鼻先を出し過ぎて一時停止したら、ちょうど通りかかったトラックがLP400の先端にぶつかってしまい、見事にフロントバンパーだけがスコンと飛んでいったこともありました。その奇跡のアクシデントが目の前で起きましたよ」
2号車はボディカラーが派手だったこともあり注目を浴びた
「銀座や横浜でそんなこんながあったあと、イエローのカウンタック LP400が入ってきました。すると、安田さんが黒メタのLP400と入れかえるかたちで、これを購入されました。1975年の秋に開催されたモーターショーに展示したら、展示台の上に載せたイエローのカウンタック LP400に大勢の人が押し寄せ、まわりのロープが切れそうになりました。そのときです、初めて私は実感しました。“スーパーカー”のパワーを」
「シーサイドモーターはランボルギーニの日本総代理店だったので、カウンタック LP400の新車をオーダーできましたが、ボディカラーはこちらのリクエストで選ぶことはできませんでした。なので、実際に日本に上陸したのは1号車が黒メタ、2号車がイエロー、3号車がオレンジ、4号車が茶メタでした」
「3号車のオレンジは納期が遅れたので、高額なエアカーゴでミラノの空港から羽田に飛ばしました。通関を切る際に人だかりができましたね。3号車に関しては写真を撮りました。全部で30枚ぐらいあると思います」
スーパーカーショーやスーパーカーカードや自動車雑誌などで、日本上陸3号車であるオレンジ色のカウンタック LP400を見かけたことのある方も多いことだろう。上の写真は羽田空港に到着したカウンタック LP400を、通関後に羽田から横浜まで走らせているときのものだ。
当時の子供の憧れだったグッズ販売も行っていた
「ブームのときに子どもたちがスーパーカーの生写真を交換したりしていたので、もっとキレイな写真を提供できるといいな、と思ってイエローのミウラSVと、同じくイエローのディーノGTSを題材としたポスターを2000枚ほど作りました」「週刊少年ジャンプに広告を出したりしましたが、シーサイドモーターの仕事ではなく、あくまでも専門学校時代の同級生とのアルバイトとしてコッソリやっていました。あるとき1977年に公開された山田洋次監督作品の幸福の黄色いハンカチを観たら、劇中に登場した部屋に、われわれが密かに作ったポスターが貼ってありましたね」
ブーム全盛時は走行音を収録したレコードまでリリースされた
「結局、売れ筋の赤の新車は入ってこなくて、徳間音工から依頼されて作った“スーパーカーレコード”のジャケットになった赤のLP400は中古車でした。このレコードを作るための走行音は、イエローのLP400を新宿で走らせて録音しました。夜中にオーナーの家の近くで録音するという強行軍でしたね」
150台しか生産されていないLP400が20台も日本にあった
「中古のLP400は全部で20台ぐらい入れたと思います。すべて、その理由は、スーパーカーブームが起こり、各地でスーパーカーショーが開催されたからです。黒ボディに白いストライプが入った有名な個体も中古車でした。当時はイタリアとテレックス(原注:タイプライターのようなキーボードが付いている通信機器のこと。メッセージを打ち込んで送信ボタンを押すと、送り先のテレックス端末に印刷された紙が出力される。FAXの前身のようなもの)でやりとりしていたので、クルマを仕入れるのが、とにかく難しいことでしたね。今でこそネットが普及していますが、当時の担当スタッフは大変だったと思います」
「そういえばカウンタック LP400Sの新車は、赤を1台だけ入れました。シーサイドモーターが1980年2月に倒産してしまったので、このLP400Sが新車で入れた最後のカウンタックでしたね。オーバーフェンダーが付いていて、そのままでは車検をパスすることができなかったので、わざわざ段差をパテで埋めて車検を通しました」