現在のメルセデス・ベンツの基礎とも言える存在
メルセデス・ベンツが1982年に発表した小型車・190E/W201こそ、今日のCクラスの成功の礎であった。つまり、メルセデス・ベンツの哲学を凝縮した偉大な小型車と言える。そこで、今回はメルセデス・ベンツの革命児「190E」と題して、その背景と特徴、豊富な190Eシリーズを紹介しょう。
小型車190Eを生産するに至った背景
そのきっかけはアメリカの燃費法、つまり、燃費の悪い大型車の販売台数を制限する法律が施行されたからだ。当然アメリカへの輸出車も、燃費の悪い大型車は輸入台数が制限された。世界中の自動車生産国がことごとく、生産台数の半分以上はアメリカ市場輸出を当て込んでいた。
メルセデス・ベンツも同じ立場であった。さらに1986年はメルセデス・ベンツにとって、世界初のガソリンエンジン付き自動車を発明から100年を記念した「自動車誕生100周年記念祭」を目前に控えていた。将来の排気ガス、環境、安全性などの規制に適合するよう、大幅な設備改革へ挑戦する必要があったのだ。
当時、メルセデス・ベンツの生産プログラムには、セダンではミディアムクラスと大型のSクラスしかなかった。そこで、メルセデス・ベンツはどうしても小型経済シリーズを造って量産体制を確立しなければ、厳しい生存競争に勝ち残れないと判断したのである。
高級車のイメージが強いメルセデス・ベンツだが、じつは小型車も何種類か存在していた。1935年には170シリーズを生み出し、戦後ヤナセが最初に輸入したのが1952年型170Vという小型車であった。ちなみに、2022年はヤナセがメルセデス・ベンツを取り扱って70周年記念を迎える。
さて話を戻すと、当時の170シリーズが長続きしなかった理由は、この小型車もやはり高級仕様だったので生産コストが高過ぎたからだ。元来、高級車に支えられた工場の生産能力では、小型車の量産は採算が取れなかった。
メルセデス・ベンツの革命児「190E」が誕生
すでに1970年代にメルセデス・ベンツは、ふたたび小型車づくりに取り組んでいた。つまり、190E/W201のデザインのブルー・プリントやクレイモデル、本格的な風洞実験(Cd値=0.33)、そして新しく開発されたサスペンションの実走行テスト(計8タイプ・72種類が設計され、その内の約1/3が実走行テスト)、前後衝撃吸収衝突テストなどを実施していた(オフセットテスト)。190Dのディーゼル騒音テストも行われている。
満を持して1982年、メルセデス・ベンツの革命児として190Eが誕生した。そして、11年間で190万台生産され、世界中で大ヒット。1982年に発表されたこのコンパクトクラスだが、当時W123モデルがコンパクトクラスと呼ばれていたので、そのもっとも小さな200Eよりもさらに小さい「190E」と名づけられた。
世界中で瞬く間にヒットし、日本には1984年10月に導入されて当時の価格は190Eが540万円と高額だった。190Eは4気筒、1995cc、KE-ジェトロニック燃料噴射エンジンを搭載(メカニカル/電子制御燃料噴射装置)し、115psを発揮した。
ボディサイズは全長4420mm、全幅1680mm、全高1385mm、ホイールベース2665mm、最小回転半径5m。当時の国産セダンではコロナ並みで、セールスポイントも「5ナンバー」、「右ハンドル」。バブル期ということもあり、日本でも爆発的な人気車となった(愛称は小ベンツと親しまれた)。
デザインはあの有名なブルーノ・サッコの代表作で、フロントスタイルはまさにSクラスの縮小版、リヤスタイルは腰高ダイアモンドカット。筆者はこのリヤスタイルに当初は正直驚いたが、日本車のデザインがすぐ追いつき、慣れるのに大した時間はかからなかった。
小型化されたが、Sクラス/W126の開発で培った品質や安全性のノウハウを全面的に拡大し、なおかつそれを小型サイズに縮小する極めて手の込んだものとなった。室内/安全性/品質はさすがメルセデス流に設計され、操作類の扱いやすさやセーフティセル構造の安全性、入念な6重塗装(メタリックは7層)や防錆・防腐処理などの品質が重視された。
こだわり抜いたマルチリンクサスペンション
フロントサスペンションはショックアブソーバー・ストラット式。特筆すべきは、リヤサスペンションに新しい革新的なマルチリンク式サスペンションを採用したことで、走行安定性に定評があった。
とくにメルセデス・ベンツは、13年の歳月をかけ世界に先駆けて開発したこのマルチリンク式リヤサスペンションをコンパクトクラスの190E/W201に採用。大型サルーンに匹敵する乗り心地、操縦性、安全性をもたらし技術的に大革新を果たした。
この革新的なシステムは、左右ホイールに対し5本のリンクを立体的に配置することで、個別に懸架されたリヤホイールの最適な動きを可能とし、快適な乗り心地を発揮。このマルチリンク式リヤサスペンションはその後、後輪駆動のセダン、クーペ、カブリオレ、スポーツカーすべてに採用され、そして今や、高級車の主流になっている。
どこの世の中にも一徹なエンジニアがいるものだ。このマルチリンク式サスペンションを生み出したエンジニアは長年開発した挙句、社内の稟議書が通らなかったという。悔しくて自分で試作車に付けて走行させ、計8タイプ・72種類の異なるサスペンションが設計されたなかで最高点を取り、採用が決まったというエピソードがある。
また、「良いもの」と認めた当時の実験所長はどんなクルマも、仮にメルセデス・ベンツの社長がOKと言っても、自分自身が納得するまでは世に出さなったと言われていた。時代の流れかも知れないが、徐々にこの種の一本筋の通っている人が少なくなっている気がするのは筆者だけだろうか?
日本でも富裕層を中心に大ヒットする
日本の販売ターゲットはまずメルセデス・ベンツオーナーのセカンドカー、奥さま用、女医およびヤングファミリー、シニアドライバー、そしてAMGの本格スポーティセダン愛好家と多彩で人気があった。
筆者が販売したなかではとくに、女性のお客さまが多かった。お客さま曰く『私はメルセデス・ベンツに乗せてもらっているのよ』との名言をいただいた。『だって、私がメルセデス・ベンツを運転するのではなく、メルセデス・ベンツが自然と私を乗せてくれるから、とっても楽なのよ!』と。
日本のターゲットに合わせた販売バリエーションは、じつに豊富であった。1984年10月に日本に初導入された190Eに続き(115ps)、1986年には前後スポイラー、サイドスカートなど精悍なエアロパーツで全身をかためたレーシング・スポーツセダン190E 2.3-16を発売(175ps)。シートは解剖学的に正しい設計でサイドサポートに優れた深いバケットタイプを採用した。シート中央部はチェックの布張りでサイドはレザーが標準装備となる。
とくに、この190E 2.3-16は1983年8月2日、南イタリアのナルド・サーキットで5万kmを約8日間かけて走破し平均速度247.939km/hの世界記録を樹立。これはギヤ比の変更とエアロパーツの追加を施しただけという、市販車そのものの性能だった。
また、同1986年には5気筒カプセルディーゼルエンジンを搭載した190D 2.5を発売(90ps)。翌1987年には6気筒エンジンを搭載した190E 2.6を発売(165ps)、さらに190Eに装備を簡素化したアンファングと高級仕様のコンプレットを発売する。
1988年にはマイナーチェンジ。ボディサイドにサッコプレート(プロテクトパネル)を装着し、前後バンパーもデザイン変更された。注目は1988年に2.3-16をDTM(ドイツ・ツーリングカー選手権)に投入し、これに伴い2.3-16は排気量を拡大、エアロパーツを装着したレーシング・スポーツセダン2.5-16が導入されたこと(200ps)。
1989年に190 2.6に右ハンドルを用意。さらに190Eと190E 2.6にスポーツラインが加わり、スポーツシートやリヤスポイラーを装備していた。1990年に190E 2.3を発売(135ps、右ハンドルのみ)し、続けて190D 2.5ターボを発売(125ps、左ハンドルのみ)され、190D 2.5は右ハンドルのみとなった。1992年にはエアバッグやパワーシートが全車標準装備されている。
190E 2.5-16エボリューションモデルでDTMに参戦
190E 2.5-16エボリューションは、DTM(ドイツツーリングカー選手権)参戦ベースマシンだ。1989年の190E 2.5-16エボリューションIとして1990年途中から登場し、よりエアロダイナミック性能を高めた190E 2.5-16エボリューションIIの2モデルがある。
両車はDTMのグループAツーリングカーレース用ホモロゲーションを取得する為の規定台数として、それぞれ500台ずつ生産された。コスワースによるエンジンは直4DOHCで2463cc。エボリューション1は231ps、エボリューションIIでは235psを発揮した。日本への正規輸入された個体は190E 2.5-16エボリューションIが3台、190E 2.5-16エボリューションIIは50台と言われている。
AMGは当時まだ独立した組織でありながら、70年代からメルセデス・ベンツをチューニングしツーリングカーレースに参戦。実績を重ねていたことを認め、メルセデス・ベンツはレースカーの開発を依頼した。DTMに出場した車両で最終的に375ps以上を発揮。DTMでメルセデスAMGが1980年代末~1990年代初めに、190E 2.5-16エボリューションIIで圧勝したこの50勝は金字塔で伝説になっている。
190Eは初代CクラスW202/S202へと発展
190Eの後継車として、1993年6月に当時のメルセデス・ベンツ社は、初めて「Cクラス」と呼ばれた新しい小型モデルを発表した。このCの意味は、Eクラスの下に位置する「コンパクト」のCだ。
W202はセダン、S202はステーションワゴンのコードネーム。5ナンバー枠にとらわれない全長×4495mm、全幅×1720mm、全高×1420mmというボディサイズ(1996年)。デザイナーはオリビエ・ブーレイで、そのスタイルの特徴は上下に伸びた「おむすび形」のテールライトだ。このため、トランクリッドがバンパーレベルから開閉できるようになった。
AMGとの初の共同開発車・C36やステーションワゴンが加わったのもこのW202型からだ。1993年導入当時の価格はC220が510万円。前身の190Eに比べて実用性をより高め、室内スペースを改善、能動的/受動的安全性の強化など、7年間の開発期間を経て世界的な販売不振にあえぐ市場に投入された。
とくに、この初代Cクラスは「市場と顧客の動向」に敏感であると謳ったメルセデス・ベンツの新しい哲学に基づいたモデル。つまり、メルセデス・ベンツ史上初めて、「more value but more expensive」=「価値はより高く、しかし価格はより高くなく」を合言葉として、まったく新しいシリーズのクルマとなるCクラスが開発された。結果、この初代Cクラスは、当時の新型モデルにもかかわらず、その前身モデルである190と同じ価格帯に留まった。
最近では社会的価値が世界的に大きく変化してきている。1980年代は周囲に対して自分はこれだけ成功しそれを誇示したい、クルマもどんなにコストがかかっても、高くていいものが欲しいという傾向があった。しかし、ただそういう物が持っている価値以上の金額を払ってまで、という意識はなくなってきている。
とくに環境保護の意識が非常に高まり、脱炭素を踏まえ自動車を取り巻く環境やクルマを所有するのではなく、モビリティサービスへと大きく変化しているのだ。日本では「ベンツ」と呼ばれた昔、高級イメージが強かった。だが、今日ではメルセデスと呼ばれるファミリーカーや電気自動車・EQシリーズを揃え、現モデルラインアップは一段と豊富になった。
そこには昔のような格差はなく、多彩なファションを着こなすライフスタイルに応じたモデルを導入している。とくに、メルセデス・ベンツの革命児・190Eこそは、現在に続く歴代Cクラス成功の礎であった。そこで、ニューCクラスが小さい兄貴分190Eと比べ、どれだけ成長していくのか、大きな期待と関心を持っても見守ろうと思う。