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熱きナニワのホットハッチ!「シャレード・デ・トマソ」がヤンチャ過ぎた

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TEXT: 原田 了(HARADA Ryo)  PHOTO: DAIHATSU/JAMA/原田 了

真面目な技術者が真摯に開発したコンパクトカー

 以前にフェローフェローバギィを紹介したときにも触れたように、ダイハツには生真面目な技術者集団という社風(のイメージ)があり、その製品は質実剛健(なイメージ)があります。その最たるものが、トヨタ・パブリカの兄弟車だったコンソルテの後継モデルとして77年に登場したシャレードです。カー・オブ・ザ・イヤーに輝くなど高い評価を受けたシャレードは、またある側面では個性的な派生モデルも数多く生みだしています。今回はそんなシャレードの歴史を、派生モデルも含めて詳しく振り返ってみることにしましょう。

1L直列3気筒エンジンで誕生した“リッターカー”

 72年にホンダがシビックで先駆けとなり、70年代の終わりからは続々と各社が追随した、エンジンをフロントに横置きに搭載して前輪を駆動するハッチバック。1977年に登場したシャレードも、この技術トレンドを追随していて、その意味では目新しいパッケージではありませんでしたが、その一方で、ライバルにはない特徴をいくつも持っていました。初代シャレード 何よりも必要十分と割り切って、軽量コンパクトを徹底的に追求したことが最大の美点でした。ボディの全長×全幅×全高は3460mm×1510mm×1360mmと、当時の(1976年に改訂された)軽自動車枠よりも260mm長く110mm広いだけでした。ちなみに、このサイズは前輪駆動/ハッチバックの先駆けとなった、初代シビック(2/3ドア)よりわずかに大きい程度。4/5ドアでここまで切り詰めていたのは驚きです。

 エンジンは、ライバルが1.2~1.3Lへと拡大されていったのに対して1L以下に留めていたことも、石油危機後に省資源化へと舵を切った社会環境も後押しする要因となりました。しかも、排気量1Lのエンジンへの最適解を求めた結果、常識的な直列4気筒ではなく、より軽量コンパクトな直列3気筒を選んでいたことも大きなエポックとなりました。

 エンジンの理論的には気筒辺り300cc程度がベストなのですが、4サイクルの直列3気筒だと振動が気になります。それに対してはバランスシャフトを組み込むことで対処。エンジン屋の面目躍如といったところでしょうか。こうしてシャレードは“リッターカー”のフレーズとともに人気急上昇となりました。2代目シャレード シャレードは、その後83年にフルモデルチェンジを受けて2代目のG11系に移行し、さらに1987年には3代目のG100系に。3代目シャレード 1993年には4代目のG200系へと移行していきました。4代目シャレード 残念ながら世の中の趨勢と市場の要求もあったか、モデルチェンジの度にボディサイズが拡大し、それに比例するように車重も重くなっていきました。何よりも3代目からは直列4気筒の1.3Lエンジンが搭載されるようになり、4代目では3気筒エンジンがラインアップから消滅してしまいます。クリーンなリッターカーではなくなってしまったのは残念な限りです。

シャレード全世代を通じてデ・トマソ仕様をラインアップ

 そんなシャレードのもうひとつの特徴が、数多くの派生モデルが用意されたことでした。なかには世界選手権ラリーに参戦するに当たって、グループBのホモロゲーション(車両公認)を取得するためのホモロゲーション・モデルもありました。また、初代から4代目までの全世代においてデ・トマソ仕様がラインアップされていたことは特筆に値します。その辺りを振り返る前に、まずはデ・トマソについても少し触れておきましょう。

 デ・トマソは、アルゼンチン出身のレーシングドライバー、アレハンドロ・デ・トマソが興したイタリアの自動車メーカー。当初はレーシングカーのシャーシを製作していましたが、スポーツカーのヴァレルンガで初めてコンプリートカーの製作を始めました。デ ・トマソ・ヴァレルンガ その後はマングスタやパンテーラなどの“スーパーカー”を製作しています。一次的にマセラティを傘下に置いたことで、世界的に有名なメーカーのひとつになっていました。デ ・トマソ・パンテーラ デ・トマソとダイハツの“馴れ初め”は、ブリティッシュ・レイランド・モーター・コーポレーション(BLMC)の傘下で、ミニから派生したイノチェンティ・ミニを生産していたイノチェンティ社が、BLMCの破産により、ブリティッシュ・レイランド(BL)として国営化された際にデ・トマソ傘下へと移動。イノチェンティ・ミニ・デ・トマソ 引き続きイノチェンティ・ミニの生産を続けることになりましたが、1982年にBLとの提携が終了。新たなエンジン供給元としてダイハツが選ばれて、シャレード用の直列3気筒エンジンの供給が始まったことで両社の関係が始まりました。

 デ・トマソが手掛けたシャレードの第1弾は、1981年の10月に開催された第24回東京モーターショーに参考出展されたシャレード・デ・トマソ・ターボ。1981年東京モーターショー出展のシャレード・デ・トマソ 初代シャレード(G10系)の3ドアクーペをベースに、内外装をスポーティな味付けとしていました。搭載されたエンジンは、オートマチック用にチューンされたCB32型にIHI製のターボを装着。最高出力をベースユニットの44psから75psまで1.7倍にまでパワーアップ。残念ながら、こちらの市販は叶いませんでしたが、ショーでの評判は高く、ダイハツも自信を深めたようです。

2代目で市販が実現したデ・トマソ仕様 

 1983年にシャレードは、最初のモデルチェンジを経て2代目のG11系が登場しています。3/5ドアハッチバックのボディに搭載されるエンジンは、すべて直列3気筒で、1Lのガソリン・エンジンとディーゼル・エンジン、さらにその双方にターボを組み付けたものの4種をラインアップしていました。

 このシャレード・ターボをベースにしたシャレード・デ・トマソ・ターボが1984年12月に登場。エンジンはベースのままで80psの最高出力も変わりありませんでしたが、デュアルエキゾーストパイプが“特別感”を演出しています。またデ・トマソの名に相応しく、カンパニョーロ製マグネシウム合金のホイールやピレリP8タイヤ、MOMO製本革巻き3本スポークステアリングなど、マニア垂涎のイタリア製パーツを満載。外観ではフロントのバンパースポイラーやリヤスポイラー、サイドスカートなどエアロをフル装備していました。市販されたシャレード・デ・トマソ・ターボ ベースとなった3ドア・ターボに比べて10kgほど重くなっていましたが、それでも車重は965kgに抑えられていてパフォーマンスは十分でした。半年後の1985年6月にはホワイトのボディに淡いシルバーのエアロパーツを身に纏い、ツートンカラーでコーディネイトした特別仕様のビアンカ(Bianca。白を意味する伊語)が600台限定で販売されていました。

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