クルマのパフォーマンスを示す大きなバロメーターは最高速度だった
19世紀末に誕生したクルマ=内燃機関を搭載した自動車は、さまざまな技術が革新される度に、その性能が向上してきました。快適性能や安全性能など、クルマの性能を表す評価軸は少なくありませんが、まだまだ発展途上だったころにもっとも重視されていたのは動力性能=パフォーマンスでした。
なかでも最高速は、多くのファンが注目した性能表示のひとつでした。モータースポーツにおける速度記録については大きく分けてふたつあって、ひとつは速度記録(Land Speed Record)といって地上での絶対速度を競うもの。国際自動車連盟(FIA)が統括するモータースポーツのなかでは、4輪の競技車によって記録されたもののみが有効となっています。
速度記録へのチャレンジは、フラットで広大なスペースを持っている会場が使用されますが、近年(第2次世界大戦前辺り)では米国ユタ州のソルトレイクシティーにあるボンネビル・ソルトフラッツが有名です。
もうひとつの形態として知られるのが周回路を使ったタイムトライアルで、一定時間の平均速度を競うものです。速度記録に関しては、2016年にホンダの有志がS660の直列3気筒エンジンをベースにチューニングを施したユニットを搭載したS-ドリームでクラス最高記録をマークしています。タイムトライアルに関しては、日本車が世界記録を樹立したケースもありました。今回紹介するトヨタ2000GTのタイムトライアルも、そのひとつでした。
レースだけでなくスピードトライアルでもメーカーが鎬を削っていた時代
トヨタ2000GTは、国内トップメーカーのトヨタ(当時はトヨタ自動車工業)が1967年に発売したGTカーで、同社のフラッグシップカーでもありました。現在に比べると工業技術は高くありませんでしたが、それを補って余りある高邁な意志に裏打ちされた2000GTは、今でも高い評価を受けています。当時からモータースポーツで鍛えるという、現代に繋がる哲学で開発が進められてきました。
まだ発売前だった1966年には、日本グランプリのメインレースに参戦しています。このレースは、プライベートのポルシェ906(愛称“カレラ6”)とプリンス自工のワークスチームがエントリーしたR380など、純レーシングカーのスポーツプロトタイプ(当時のグループ6)が主役のレース。
市販(予定)車をベースにしたトヨタ2000GTではまったく歯が立たないことは明らかで、2000GTを“鍛える”ための参戦だったのですが、2台のR380に次いで3位入賞を果たしています。さらにその1カ月後に行われた鈴鹿1000kmでは、福沢幸男/津々見友彦の若手コンビが優勝を飾りました。
3昼夜に亘って連続周回し平均速度で新記録を目指した
そんな2000GTの次なるチャレンジとなったのが、今回のテーマであるスピードトライアルでした。これは1966年の10月1日から4日間に亘って茨城県の矢田部町(現つくば市)にあった、自動車高速試験場(現日本自動車研究所)で開催されています。
高速テストコース(1周5.5kmのバンク付きのオーバル周回路)を3昼夜に亘って連続周回し、その平均速度で新記録を目指そうというものでした。イベント自体、FIAと日本自動車連盟(JAF)が公認していて、記録もFIA/JAFの公式記録とされています。
じつは、この矢田部の高速試験場を舞台に、2000GTよりも1年早く、プリンス自動車工業がR380を使ってスピードトライアルを実施していました。1965年の日本グランプリに向けて開発されたプリンスR380は、レースが中止されたことで新たな活躍の場を探してスピードトライアルのイベントが企画されたのです。
1965年10月のことで、まずは6日にスピードトライアルがスタートしたもののタイヤバーストからクラッシュしてしまい、イベントが延期とされてしまいます。そして10月14日に再スタートが切られ、6種目の日本記録がマークされました。この当時はまだ、高速試験場がFIAのコース公認を獲得していなくて、R380がマークしたスピード記録は日本記録に留まっています。