エキサイティングなレースは開発競争が過当になりシリーズも終焉に
エキサイティングなバトルが売り物のBTCCほどではなかったものの、レースでは随所でホットバトルが展開され、観客からも好評を博すことになりました。
開幕戦はアンソニー・リードのキャバリエが2レースを連覇したものの、第2戦以降はトヨタ勢が優位に展開することになりました。そして最終戦では日産勢が速さを見せつけ星野一義が初優勝を飾るなど、まるでシナリオがあったかのような展開で、一層盛り上がることになりました。
しかし、2シーズン目からは、後付けのエアロパーツも認められるなど、厳しかった車両規則が緩和されると、必然的に各メーカーによる車両の開発競争が激化していきます。
もっとも進化の速さと度合いが高かったのはホンダでした。軽量コンパクトなボディにインテグラ用をベースに開発した2Lエンジンを搭載したシビック・フェリオは、グループA規定で戦われたJTCで培ってきた最新テクノロジーが詰め込まれていました。ですが、94年と95年の2シーズンはまったく勝てませんでした。
そこで96年にはシビック・フェリオからアコードにベース車両を変更するとともに、空力スペシャリストの童夢とジョイントしてマシン開発を進めた結果、96年シーズンには開幕3連勝で全14戦中半数を超える8戦で優勝。服部尚貴と中子 修がランキング1-2を独占します。
翌97年シーズンには全16戦中9勝で、中子と黒澤琢弥がランキング1-2とシリーズを席捲することになったのです。
しかし、この年を限りにホンダと日産が参戦を休止し、結果的に最終シーズンとなった98年は、ワークス系は新たにチェイサーを投入し、プライベーターは熟成されたコロナ・エクシヴで継続参戦したトヨタの、事実上のワンメイクに。5シーズンの短いキャリアを残しただけで、JTCCは終焉を迎えることになりました。
短命に終わった理由はさまざま考えられていますが、トヨタと日産、ホンダの3メーカーが過度に技術開発競争を続ける“仁義なき戦い”に明け暮れたことも大きな一因となったようです。
これを教訓として、94年から本格的に始まった全日本GT選手権(JGTC。現SUPER GTの前身)ではトヨタと日産、ホンダの3メーカーが、車両規則を策定する際には協議を行うなど協調性が確保され、今でもなお三つ巴の戦いが続けられています。