タフなバトルが売り物だった全日本ツーリングカー選手権
それまでのグループA車両による全日本ツーリングカー選手権から内容を一新、1994年から始まった新たな全日本ツーリングカー選手権は、国内4メーカーが鎬を削る、タフなバトルが売り物のレースシリーズでした。今回は、そんなふたつの全日本ツーリングカー選手権を振り返ることにしましょう。
同じ全日本ツーリングカー選手権でもJTCとJTCCは完全な別モノ
85年から93年までの9年間と94年から98年までの5年間にそれぞれ行われていたツーリングカーのレースシリーズですが、ふたつのシリーズの正式名称はともに『全日本ツーリングカー選手権』でした。
しかし93年まで開催されていた前者はJapan Touring-car Championshipの頭文字を連ねてJTCと呼ばれ、94年から始まった後者はJapan Touring Car Championshipの頭文字を連ねてJTCCと呼ばれるようになりました。
JTCにはトヨタと日産、ホンダ、三菱、そして初期にはいすゞも参戦していました。ですが、やがて総合優勝を争うクラス1(排気量が2501cc以上)とクラス2(排気量が1601~2500cc)が、それぞれ日産スカイラインGT-R(R32)とBMW M3の事実上のワンメイクへと淘汰され、クラス3(排気量が1600cc以下)はホンダ・シビックとトヨタ・カローラ・レビンのマッチレースへと収斂していきました。
グループAによるJTCのレースパッケージを紹介すると、1981年に国際自動車スポーツ連盟(FISA)によって制定された競技車両規定のこと。連続する12カ月間に5000台以上(93年からは2500台以上に緩和)が生産された4座以上の車両をグループAとして公認。先に触れたように排気量別で分けられた3つのクラスが混走、ふたり以上のドライバーが交代して走る、レース距離300㎞~500㎞(一部で5時間の時間耐久レースあり)のセミ耐久レースでした。
それまでにも長い歴史を持っていたヨーロッパ・ツーリングカー選手権(ETC)が、グループA規定が発効した80年代初めから、グループAによるレースへと移行したことで世界的に人気が高まり、ツーリングカーの全日本選手権を模索していた国内でも83年シーズンから始まったという経緯がありました。そして90年に日産が、R32型スカイラインGT-Rを投入したことで一層人気が高まっていきました。
グループAによるツーリングカーレースの発信元だったヨーロッパで、その人気に翳りが見え始めると、国別にいろんなトライが行われました。ドイツで行われていたクラス1と、イギリスを筆頭にヨーロッパの多くの国々で行われていたクラス2、ふたつの流れが注目を集めるようになり、日本では2Lクラスの4ドアセダンをベース車両とするクラス2を選択。国内ではまだグループAの人気が高かった93年を限りにグループAによるJTCを終了。94年からはクラス2によるJTCCが始まることになりました。
より多くのメーカーを取り込むことになったJTCC
JTCCにコンバートした最大の理由は、多くのメーカーが、競技車両の(ベースになる)2Lクラスの4ドアセダンをラインアップしていたことです。
実際、JTCには参加していなかったマツダが、このJTCCでは参戦の名乗りを挙げています。そしてモノクラスとなったことで、すべての参加メーカーが、同じ土俵で鎬を削ることになったのです。
クラス2の“先進国”であるイギリスで開催されている、英国ツーリングカー選手権(BTCC)に参戦していたトヨタと日産(それぞれ車種はカリーナE=国内名はコロナ、とプリメーラ)が一歩リード。両メーカーはともに国内専用にカローラとサニーを開発していました。
またプライベーターの支援というスタイルでクセドス6(ユーノス500)や323F(ファミリア・アスティナ)がBTCCなどヨーロッパのレースに参戦していたマツダは、国内のJTCC用にV6エンジンを搭載したランティスを製作。
JTCのクラス3で圧倒的な強さを発揮していたホンダは、シリーズ最終年度に先行開発を兼ねて実戦参加していたシビック・フェリオに、インテグラ・タイプR用をベースに2Lへ排気量を拡大したエンジンを搭載してシーズンに臨むことになりました。
国内の4メーカーに加えて輸入車ではBMWがワークスチーム、シュニッツァーを送り込んできたこと。
そしてシーズン終盤にはアルファ・ロメオがワークス格のユニコルセから参戦し、大きなエポックとなりました。
また本邦初登場となったボクスホール・キャバリエも大いに注目を浴びることになりました。残念ながらシーズン途中には、双子車であるオペル・ベクトラに車名が変わってしまいましたが…。
ともかく参戦車種はバラエティに富んでいて、参加台数も開幕戦のオートポリスで24台(うち2台は未出走)を数え、上々の滑り出しとなりました。
エキサイティングなレースは開発競争が過当になりシリーズも終焉に
エキサイティングなバトルが売り物のBTCCほどではなかったものの、レースでは随所でホットバトルが展開され、観客からも好評を博すことになりました。
開幕戦はアンソニー・リードのキャバリエが2レースを連覇したものの、第2戦以降はトヨタ勢が優位に展開することになりました。そして最終戦では日産勢が速さを見せつけ星野一義が初優勝を飾るなど、まるでシナリオがあったかのような展開で、一層盛り上がることになりました。
しかし、2シーズン目からは、後付けのエアロパーツも認められるなど、厳しかった車両規則が緩和されると、必然的に各メーカーによる車両の開発競争が激化していきます。
もっとも進化の速さと度合いが高かったのはホンダでした。軽量コンパクトなボディにインテグラ用をベースに開発した2Lエンジンを搭載したシビック・フェリオは、グループA規定で戦われたJTCで培ってきた最新テクノロジーが詰め込まれていました。ですが、94年と95年の2シーズンはまったく勝てませんでした。
そこで96年にはシビック・フェリオからアコードにベース車両を変更するとともに、空力スペシャリストの童夢とジョイントしてマシン開発を進めた結果、96年シーズンには開幕3連勝で全14戦中半数を超える8戦で優勝。服部尚貴と中子 修がランキング1-2を独占します。
翌97年シーズンには全16戦中9勝で、中子と黒澤琢弥がランキング1-2とシリーズを席捲することになったのです。
しかし、この年を限りにホンダと日産が参戦を休止し、結果的に最終シーズンとなった98年は、ワークス系は新たにチェイサーを投入し、プライベーターは熟成されたコロナ・エクシヴで継続参戦したトヨタの、事実上のワンメイクに。5シーズンの短いキャリアを残しただけで、JTCCは終焉を迎えることになりました。
短命に終わった理由はさまざま考えられていますが、トヨタと日産、ホンダの3メーカーが過度に技術開発競争を続ける“仁義なき戦い”に明け暮れたことも大きな一因となったようです。
これを教訓として、94年から本格的に始まった全日本GT選手権(JGTC。現SUPER GTの前身)ではトヨタと日産、ホンダの3メーカーが、車両規則を策定する際には協議を行うなど協調性が確保され、今でもなお三つ巴の戦いが続けられています。