サーキットではスカイラインが代々活躍
スーパーGTの2022年シリーズから、日産の投入車種はGT-RからフェアレディZに変更されると発表があった。かつては「レースの日産」「モータースポーツの日産」と言われるほどモータースポーツへの参画を自他ともに認めてきた日産。その車種構成で、いつの時代もスポーツ系モデルの頂点に位置付けられてきたのがフェアレディ(Z)だ。
スポーツカーのフェアレディ、そしてツーリングカーのスカイラインというのが日産走り系モデルの二枚看板だったが、市場の注目度も含め、GT-Rの登場によってそのプライオリティに変化が生じてきたのも事実だった。
決定打は、1980年代中盤から始まった「グループA」規定によるサーキットレースで、日産はここにDR30、HR31、BNR32と3世代のスカイラインを投入。とくに「GT-R」を復活させ、18年ぶりのサーキットレース再登場となったBNR32型GT-Rは、参戦した4シーズンのJTC(全日本ツーリングカー選手権)で、参戦29戦全勝という無敗神話を日本モーターレーシング史に刻みつける圧倒的な強さを発揮した。
フェアレディZもラリーやレースを戦っていた
この間、フェアレディZと言えば、じつは参戦できるレースカテゴリーがなかった。スカイラインGT-Rの陰に隠れる存在に回り、若い層のモータースポーツファンには馴染みのないモデルとなっていたが、その歴史を振り返ると、レース、ラリーで獅子奮迅の活躍を残してきたモデルであることは明らかである。
今回は、ラリーフィールドで活躍したフェアレディZを紹介しようと思うのだが、フェアレディによるラリー活動は思いのほか古く、国際的には1960年代のモンテカルロラリー(SR311型)に始まっている。
1970年代に入ると、サファリラリー/モンテカルロラリーに投入された240Z(S30型)の見事な戦績がよく知られているが、じつは国内ラリーでも、S30型が持つ軽量ハイパワー性、優れたシャシーバランスに着目して活躍したドライバーがいた。「ミスターSS(スペシャル・ステージ)」と呼ばれる鮮烈なスピードを見せ、単身、三菱ワークスのギャラン勢(篠塚建次郎ら)を相手に切り込んでいった横山文一である。
こうしたラリー活動歴を持つフェアレディZに、久しぶりにスポットライトが当たったのは1985年のことだった。当時の日本のラリー界は、1970年代のフルチューニングラリーカーから一転してノーマルラリーカー(生産車)規定に切り替わる。車両性能は、自動車メーカーが排出ガス対策をクリアしたことからパワー競争に突入していた時期だった。
ちなみに当時の生産車はまだFR方式が主流。全日本ラリー選手権の車両もこの流れに従い、ハイパワーの自然吸気DOHCエンジンを積むいすゞジェミニZZ(PF60型)から、強大なパワー/トルクを持つターボエンジン搭載の三菱ランサーEXターボ(A175型)に移り変わる足取りを見せていた。
こうしたジェミニ2連覇、ランサーターボ3連覇の流れを進んでいた全日本ラリー選手権に1985年、ついにハイパワーFR車の頂点に位置したフェアレディZ・300ZXターボが登場することとなった。それまで、ラリーカーといえばセダン型乗用車という意識が強かった関係者、ファンの目には、流麗な2シータークーペ、車高の低いフェアレディZの登場は新鮮だった。エントラントがニスモ、ドライバーは神岡政夫という布陣。
Z31によるラリー参戦が始まる!
ニスモは、日産のモータースポーツ会社として前年の1984年9月に創設され、1985年はモータースポーツ参戦の初年度にあたる年だった。そのニスモ、日産が企業として直接関与を控えてきた国内ラリー活動を真正面から捉え、同社生産車中で最高峰の性能を持つフェアレディZを競技車両に選んだことは、日本のラリー界というより日本のモータースポーツ界にとって、少しばかり衝撃的な出来事だった。
ちなみに、ニスモの初代社長に就任したのは、日産海外ラリー活動の口火となった1958年の豪州ラリーで、211型ダットサンを操りクラス優勝を遂げた難波靖治氏だった。難波氏はその後、第一特殊車両課の責任者を務め、ブルーバード、フェアレディZによる海外ラリーのプロジェクトを率いてきた経歴があり、ラリーに対する思い入れは人一倍強い人物だった。
一方、ドライバーの神岡政夫は、富山県井波町(現・南砺市)の出身で、至近距離にラリーの練習走行に適した林道が存在したこともあり、免許取得と同時に走り込みを開始。全日本ラリー選手権が正式に発足した1980年からカローラ(TE71型)で参戦を始めると、早くもこの年の最終戦となるチーム・アイ第5回スターライトラリーで優勝する。一躍注目される存在となり、ランサーターボに乗り換えた参戦3年目の1982年、ベテラン勢を相手に全日本ラリー選手権のチャンピオンを獲得。余談だが、当時24歳だった神岡の全日本ラリータイトル獲得年齢は最年少記録で、いまだに破られていない。