マツダのレース活動を支えてきた「助っ人外国人」ドライバーたち
プロ野球を筆頭にさまざまなスポーツにおいて活躍している「助っ人外国人選手」であるが、それはモータースポーツの世界でも同様。日本国内のレースのトップカテゴリーでも多くの外国人ドライバーたちが活躍しているのは、皆さんご存じの通り。
1991年、レギュレーション変更によりロータリーエンジン参戦最後の年となったマツダの「ル・マン24時間レース」挑戦において悲願の優勝を果たしたのも、フォルカー・ヴァイドラー、ジョニー・ハーバート、ベルトラン・ガショーの外国人選手たちだった。
英国のレーシングドライバー、クライブ・ベイカーさん
それよりさかのぼること約20年前、ル・マン制覇の栄冠など、まだ誰も想像すらしていなかったマツダのレース活動黎明期に、未知であった東洋の自動車メーカーの、未知の「ロータリーエンジン」で戦ったひとりのイギリス人ドライバーがいる。それがこの記事の主人公、クライブ・ベイカー(Clive Baker)さんだ。
ベイカーさんは現在、生まれ故郷であるイギリス南東部デヴォン州にある海辺の街トーキーに住んでおり、日本でいうところの傘寿の誕生日を1月8日に迎えて御年80。写真は2006年の来日時のもので、隣で微笑むのは妻のレイチェルさんだ。
「1969年に一本の電話をもらったんだけど、“MAZDA”がうちのクルマでレースに出ないか? と聞いてくるんだ。電球メーカーが自動車レース? 不思議に感じたよ」
アメリカ・ゼネラルエレクトリック社(GE)の「MAZDA」ブランドの電球のほうが、当時のイギリスでは「自動車メーカーMAZDA」よりも知名度が高かったのである。
1969~70年にマツダ「R100」で欧州の耐久レースへ参戦
当時、完成して間もないロータリーエンジンの優秀さを証明しようとしていたマツダが、戦場に選んだのはヨーロッパだった。「コスモスポーツ」で世界一過酷といわれていた「マラソン・デ・ラ・ルート84時間」に挑んだのは、前年の1968年のことで、見事に4位でフィニッシュ。続く翌1969年は、「R100(ファミリアロータリークーペ)」で「マラソン・デ・ラ・ルート」へ再挑戦するだけでなく、「スパ24時間レース」にも参戦しようとしていた。
そんななか、名だたる耐久レースで活躍していたイギリス人ドライバー、クライブ・ベイカーさんを起用することとなったわけだ。こうして当時27歳だったベイカーさんはマツダと契約し、「マラソン・デ・ラ・ルート84時間レース」から、マツダレーシングチームの一員となった。
それ以前は「BMC(ブリティッシュ・モーター・カンパニー)」のワークスドライバーとして、おもに市販車やプロトタイプのスポーツカーで、「ル・マン24時間レース」や、「ニュルブルクリンク1000kmレース」、「セブリング12時間レース」といったロングディスタンスのレースを得意としていた。
「オースティン」の小型スポーツカー「ヒーレー・スプライト」を何度もクラス優勝に導いたほか、その後「シェブロン」や「マーチ」などでも活躍した実力派ドライバーだ。