ライセンス生産から国産化を進め、クロカン4WDのベンチマークに
戦後、ウィリス・オーバーランド社は軍用から民生用に転換した「ジープCJ(シビリアン・ジープ)」を増産。日本国内でも販売拠点となる「倉敷フレイザーモータース」が設立されています。また敗戦直後に設立された警察予備隊(現陸上自衛隊)は、米軍供与の兵器で武装していましたが、小型トラック=ジープの増備に関しては、ジープを日本でノックダウン生産することに決定。朝鮮戦争でジープが必要となることも大きな要因となったようです。
トヨタや日産とともにライセンス生産の入札に臨んだ三菱(当時は中日本重工業)が、倉敷フレイザーモータースからの後押もあり落札。名古屋製作所の大江工場でライセンス生産することになりました。この「CJ3A」は、すべての部品がウィリス・オーバーランド社製の、完全なノックダウン生産でしたが、1954年の12月にはエンジンの国産化を達成、翌55年から京都製作所で量産が始まっています。
ウィリス・オーバーランド社は1952年に、それまでのサイドバルブからOHVのFヘッドを搭載したハリケーン4・エンジンにコンバートしていましたが、そのハリケーン・エンジンを参考に国産化されたエンジンは日本製のハリケーン4を意味する「JH4型」と名付けられました。そして56年には完全に国産化された、三菱ジープJ3型が完成しています。
1955年にはメタルドアの「J10型」が登場。さらに2ドアワゴンの「J11型」、ディーゼル・エンジンの「KE31」ユニットを搭載した「JC3型」など、さまざまなバリエーションが登場しました。60年には右ハンドルへの移行が始まり、翌61年にはすべての三菱ジープが右ハンドルに生まれ変わっています。しかしこれらはすべて、ひと目見て「ジープ」とわかるデザインでした。
そのデザインに手が加えられたのは1974年のマイナーチェンジのとき。外観での一番大きな変更は、フェンダー(ホイールカバー)でした。それまではトップ部分が直線的な平面だった、通称「ストレートフェンダー」が、前端部分が少し垂れ下がった、通称「まねき猫」フェンダーに変更されたのです。同時にエンジンも同じ直4の8バルブSOHCながら2割近くパワーアップした、新世代の「アストロン4G53」ガソリンエンジンも選べるようになっていました。さらに80年には4G53を2555ccまで排気量を拡大し、最高出力も120psにまでパワーアップした「4G54」がガソリンエンジン車すべてに搭載されることになりました。
よりパーソナルユース向けの派生車種「パジェロ」が誕生
防衛庁(現防衛省)や林野庁などの省庁、あるいは電力会社への納入に加えて、機能に徹したスタイルがクロカン4WDフリークから評価され、根強いファンも多い三菱ジープ。スパルタンで機能的なパーソナルユースのクロカン4WDとして歴史を重ねる一方で、フロントに独立懸架を採用するなど、より乗用車的なモデルを派生させることになりました。それが1982年5月に登場したパジェロです。77年の東京モーターショーに参考出品された、「J52型ジープ」をベースに、外板を手直しして大きなロールバーを装着した「三菱ジープ・パジェロ」を発展させて市販に漕ぎつけた、パーソナルユースを考えた1台でした。
より快適に、そしてより豪華になったパジェロが登場したこともあり、三菱ジープはそれまで通りの「硬派」なクロカン4WDとしての道を歩み続けることになりました。しかし、1986年にはガソリンエンジン搭載モデルの生産が終了。ディーゼルエンジンに比べて軽量なガソリンエンジンを搭載することによって回頭性も高く、スポーツユースでも評価が高かっただけに、ファンからは大きな惜しむ声が聞かれました。
そして、その段階では生き永らえることになったディーゼルエンジン搭載モデルも、98年にはついに生産終了が決定。この年、J55型の最終生産記念車300台余りを含む431台を生産し、生産累計20万4000台を達成して三菱ジープは生産を終えることになりました。その後は生産在庫のみの販売が続けられていましたが、2001年3月にその在庫販売も終了。長い歴史にピリオドが打たれています。