三菱の四駆技術を育んだ元祖クロカン4WD
最近はSUVが世界的にブームとなっています。SUVとは「Sport Utility Vehicle」の略で、「スポーツ用多目的車」と訳されており、最近人気を呼んでいるのはモノコックボディの乗用車をベースに、ボディを少し大きめに、そして全高を少し高くした「クロスオーバーSUV」と呼ばれるものです。その一方で「ラダーフレーム」を持ち、最低地上高を高めてオフロードの走破性を高めた、「クロスカントリー4WD」と呼ばれるモデルも根強い人気を誇っています。
今回は、そのクロスカントリー4WDとして長い歴史を持ち、「パリ~ダカール・ラリー」を何度も制してキング・オブ・クロカンとなる「パジェロ」誕生のもととなったクルマ、「三菱ジープ」の歴史を振りかえってみます。
第二次世界大戦が生み出した名車「ウィリス・ジープ」の末裔が「三菱ジープ」
三菱ジープの「ジープ」というのは、アメリカの自動車メーカー、「ウィリス社」が保有していたブランドのひとつでした。その後、ウィリス社は時代の波に翻弄され、それに追随するように「ジープ」ブランドも諸行無常な日々を重ねてきました。そしてさまざまなドラマの末に、現在では「ステランティスN.V.」が保有するブランドとなっています。
ジープの存在はとても大きく、それと似たクロカン4WDの一般名詞のようになったことで、例えばかつてはランクルを「トヨタのジープ」と表現するなど、間違えた表記も見受けられました。ですが、ジープを名乗れるのはウィリス社とライセンス契約してノックダウン生産から始めた三菱のジープのみです。
そもそもジープは、第二次世界大戦中の1940年に米陸軍が偵察&連絡用に米国内のメーカーに開発を要請。これに応えて「アメリカン・バンタム」が一次試作車を納入しています。名乗りを挙げたもう1社、「ウィリス・オーバーランド」は期日までに納入できずにタイムアウト。「ゼネラルモータース(GM)」や「フォード」はこの条件での製作は無理、と最初から断わりを入れていました。
陸軍が要求していたおもな項目は「4輪駆動で3人乗り、積載能力は660ポンド(約300kg)、エンジン出力は40psで車両重量は1275ポンド(約585kg)以下」というもの。49日後という納入期限も厳しかったのですが、何よりも車重585kg以下という条件が、メーカーにとっては「無理難題」と考えられたようです。唯一、期日までに一次試作車を納入したアメリカン・バンタムでも、この最低重量で製作することは不可能と判断、結果的には1t弱の一次試作車を完成させていました。
一次試作車はテストの結果、二次(増加)試作車の生産が計画されますが、アメリカン・バンタム社のキャパシティを危惧した陸軍は、アメリカン・バンタム社の設計図をウィリス・オーバーランド社とフォード社にも公開、3社の競作となりました。
結果的にはウィリス・オーバーランド社の二次試作車、「ウィリスMA」がもっとも評価が高く、これを改良した「ウィリスMB」が正式採用。これと同仕様で完全互換の「フォードGPW」の製造が委託されることになり、アメリカン・バンタム社は大型の軍用車と、ウィリスMA/フォードGPWで牽引するトレーラーの製作を任されることになりました。
ちなみに、「ジープ(Jeep)」という名称は自然発生的に広まっていったと思われますが、戦後、ウィリス・オーバーランド社が商標登録し、以後は同社のブランドとして認められています。そして、民生用のジープが増産されるとともに、世界各国で、ライセンス生産が進められましたが、「三菱自動車工業」(生産が開始された当時は「中日本重工業」)が生産を続けてきた三菱ジープの歴史も、ライセンス生産から始まっています。
ライセンス生産から国産化を進め、クロカン4WDのベンチマークに
戦後、ウィリス・オーバーランド社は軍用から民生用に転換した「ジープCJ(シビリアン・ジープ)」を増産。日本国内でも販売拠点となる「倉敷フレイザーモータース」が設立されています。また敗戦直後に設立された警察予備隊(現陸上自衛隊)は、米軍供与の兵器で武装していましたが、小型トラック=ジープの増備に関しては、ジープを日本でノックダウン生産することに決定。朝鮮戦争でジープが必要となることも大きな要因となったようです。
トヨタや日産とともにライセンス生産の入札に臨んだ三菱(当時は中日本重工業)が、倉敷フレイザーモータースからの後押もあり落札。名古屋製作所の大江工場でライセンス生産することになりました。この「CJ3A」は、すべての部品がウィリス・オーバーランド社製の、完全なノックダウン生産でしたが、1954年の12月にはエンジンの国産化を達成、翌55年から京都製作所で量産が始まっています。
ウィリス・オーバーランド社は1952年に、それまでのサイドバルブからOHVのFヘッドを搭載したハリケーン4・エンジンにコンバートしていましたが、そのハリケーン・エンジンを参考に国産化されたエンジンは日本製のハリケーン4を意味する「JH4型」と名付けられました。そして56年には完全に国産化された、三菱ジープJ3型が完成しています。
1955年にはメタルドアの「J10型」が登場。さらに2ドアワゴンの「J11型」、ディーゼル・エンジンの「KE31」ユニットを搭載した「JC3型」など、さまざまなバリエーションが登場しました。60年には右ハンドルへの移行が始まり、翌61年にはすべての三菱ジープが右ハンドルに生まれ変わっています。しかしこれらはすべて、ひと目見て「ジープ」とわかるデザインでした。
そのデザインに手が加えられたのは1974年のマイナーチェンジのとき。外観での一番大きな変更は、フェンダー(ホイールカバー)でした。それまではトップ部分が直線的な平面だった、通称「ストレートフェンダー」が、前端部分が少し垂れ下がった、通称「まねき猫」フェンダーに変更されたのです。同時にエンジンも同じ直4の8バルブSOHCながら2割近くパワーアップした、新世代の「アストロン4G53」ガソリンエンジンも選べるようになっていました。さらに80年には4G53を2555ccまで排気量を拡大し、最高出力も120psにまでパワーアップした「4G54」がガソリンエンジン車すべてに搭載されることになりました。
よりパーソナルユース向けの派生車種「パジェロ」が誕生
防衛庁(現防衛省)や林野庁などの省庁、あるいは電力会社への納入に加えて、機能に徹したスタイルがクロカン4WDフリークから評価され、根強いファンも多い三菱ジープ。スパルタンで機能的なパーソナルユースのクロカン4WDとして歴史を重ねる一方で、フロントに独立懸架を採用するなど、より乗用車的なモデルを派生させることになりました。それが1982年5月に登場したパジェロです。77年の東京モーターショーに参考出品された、「J52型ジープ」をベースに、外板を手直しして大きなロールバーを装着した「三菱ジープ・パジェロ」を発展させて市販に漕ぎつけた、パーソナルユースを考えた1台でした。
より快適に、そしてより豪華になったパジェロが登場したこともあり、三菱ジープはそれまで通りの「硬派」なクロカン4WDとしての道を歩み続けることになりました。しかし、1986年にはガソリンエンジン搭載モデルの生産が終了。ディーゼルエンジンに比べて軽量なガソリンエンジンを搭載することによって回頭性も高く、スポーツユースでも評価が高かっただけに、ファンからは大きな惜しむ声が聞かれました。
そして、その段階では生き永らえることになったディーゼルエンジン搭載モデルも、98年にはついに生産終了が決定。この年、J55型の最終生産記念車300台余りを含む431台を生産し、生産累計20万4000台を達成して三菱ジープは生産を終えることになりました。その後は生産在庫のみの販売が続けられていましたが、2001年3月にその在庫販売も終了。長い歴史にピリオドが打たれています。