ガルウイングのクーペからオープンカーに移行
とはいえ300SLRの流麗なストリームラインの残響を、当時の人々が市販車300SLに認めないワケもなかった。ル・マンでの事故以前より、先述のウーレンハウト自身は300SLRの市販モデル化も考えていたらしく、レース用に数台分が用意されたシャシーとは別に、自分で公道を走らせて開発用途に充てた「ウーレンハウト・クーペ」を造っていた。この個体も、メルセデス・ベンツ博物館で現在も見られる。
そして当時のアメリカでのオープンカー人気も手伝って、1957年のジュネーブ・サロンでは、乗降性にコツを要するW198ガルウイングは「300SLロードスター」、つまりオープンボディにとって代わられた。クラシックな丸目のヘッドランプから、縦長でウィンカー一体の「ユーロ・ランプ」に顔つきが変わったのもこのときだ。ジュネーブ・サロンは春に行われ、メーカーは各国ディーラーのオーダーを受注して、夏以降に翌年モデルとして生産が始まるのが通例なので、300SLロードスターは1958~1963年生産とされる。
裕次郎さんが自らの300SLを「顔面変更」した理由は?
昭和の大スター、石原裕次郎さんがギャラを丸々とつぎ込んでまで300SLを手に入れたのは昭和38年(1958年)。中古車として手に入れたことは有名だが、当時すでに300SL自体は縦目顔に進化していたころだった。海外でもときどき、フロントをクラッシュしたガルウイングが、年式をまたいで縦長ユーロライト仕様に変更された例はあるが、裕次郎号の「3・せ3838」の個体は、当時の輸入元「ウエスタン自動車」に依頼し、縦目に替えさせたといわれている。それが確かに、前後関係で考えても整合性のある話だが、残るナゾは、なぜ裕次郎さんが300SLに縦目を欲したか? ということだ。
おそらくは、300SLRやウーレンハウト・クーペの、丸ライトだが縦長プレクシグラス付きのフロントマスクのイメージが大スターの念頭にあって、より新しいロードスターモデルの縦長ライト顔に、よりそちらに近い印象を覚えたためではないか? 後の映画「栄光への5000キロ」での510ブルや、小暮課長のガゼール・オープンなど、演じている間もカーガイだったボス(ビッグをつけなくてもボスは元々ビッグなもの)のプライベートだと思えば、腑落ちするのではないか。
ノーマルの300SLガルウイング・クーペは近年、オークションでも1億円近い高値で取引されることすらあるが、「ツルシのまんま」を拒否した昭和の大スターのやんちゃぶり、そして生涯大事にしたというエピソードが加われば、それどころでは済まない価値がある。タイムレスに輝き続けるものとは、そういうものなのだろう。