大スターには超カッコいい「外車」がよく似合った
作家、政治家として昭和と平成に少なからぬ足跡を残し、先月鬼籍に入った故・石原慎太郎さんは、自動車に関わることでは東京都知事時代のディーゼル規制で知られるが、若かりしころは「ラビットスクーター」で南米1万kmを横断し、ヨットをたしなむなど、じつは大の乗り物好きという一面もあった。実弟にして昭和の大スター、石原裕次郎さんも然り。数年前の「石原裕次郎の軌跡」展では、生涯の愛車として有名な「メルセデス・ベンツ300SLクーペ」、いわゆる「W198」のガルウイングが久々に銀座に現れたとあって、話題となった。
もともとレーシングカー「W194」として開発
300SLはメルセデス・ベンツが戦後に初めて打ち出したスポーツカーながら、テクノロジー的にも市場の好みという点でも過渡期にあって、様々なバリエーションが存在する。そもそもレーシングカーとスポーツカーの区別自体が、今ほど明確でもなかった時代だ。
300SLの「SL」とは「シュポルト・リヒテ(スポーツ・ライト)」の略。このころのメルセデスのサルーンである「300」の3L直6エンジンをベースとし、新たな鋼管チューブラー・シャシーとボディに載せた2座のレーシングカーで、大陸縦断レースのようなカテゴリーに参戦する。それが基本方針だった。
サルーン由来のエンジンと4速トランスミッションは、耐久性と信頼性に優れていたが背が高く、50度傾けて低められたボンネットに押し込まれた。鋼管チューブラー・フレームとアルミパネルによる軽量なボディワークは、キャビンはコンパクト、フロントグリルは後傾させ、今でも驚異のCd値0.25に仕上がっていたという。
ちなみにガルウイング採用の理由は、そもそも剛性確保のために用いた複雑な三角トラス構造のせいでサイドシルを低くできず、通常の水平に開くドアが困難だったので、上に跳ね上げて解決したため。
こうしてレーシングカーとして開発された「W194」は、1952年にメキシコのレース「カレラ・パナメリーカーナ」を制した。その個体は今もシュトゥットガルトのメルセデス・ベンツ博物館にある。
アメリカの敏腕ディーラーが市販化を提案
いずれアメリカ大陸、次いでル・マン24時間を制したW194に、ニューヨークの敏腕ディーラーで「ポルシェ356」も扱っていたマックス・ホフマンが、W194の市販モデルを作るよう、メルセデス・ベンツに持ちかけた。これが1954年にニューヨーク・ショーで発表された「W198」こと「300SL」に繋がる。
時を同じくして欧州では、当時の開発部長だったルドルフ・ウーレンハウトの指揮で、W194の後継として開発された「W196」が、F1で圧倒的な強さを見せ始める。1954年の2.5Lレギュレーションに合わせた2.5L直8エンジンは、やがて3Lに拡大されて2座のロードスターである「W196S」に派生した。
よりロングノーズで、いかにも空力に優れそうなストリームラインの2座ロードスターは、スポーツカーレースを席巻。これがスターリング・モスがミッレミリアにおける史上最速タイムを叩き出す原動力となった、「300SLR」だ。そんな絶頂期の1955年ル・マン24時間で、ワークスの300SLRの1台がモータースポーツ史上最悪となる84名が死亡する事故を起こし、このときメルセデス・ベンツはモータースポーツから完全撤退を表明した。
ガルウイングのクーペからオープンカーに移行
とはいえ300SLRの流麗なストリームラインの残響を、当時の人々が市販車300SLに認めないワケもなかった。ル・マンでの事故以前より、先述のウーレンハウト自身は300SLRの市販モデル化も考えていたらしく、レース用に数台分が用意されたシャシーとは別に、自分で公道を走らせて開発用途に充てた「ウーレンハウト・クーペ」を造っていた。この個体も、メルセデス・ベンツ博物館で現在も見られる。
そして当時のアメリカでのオープンカー人気も手伝って、1957年のジュネーブ・サロンでは、乗降性にコツを要するW198ガルウイングは「300SLロードスター」、つまりオープンボディにとって代わられた。クラシックな丸目のヘッドランプから、縦長でウィンカー一体の「ユーロ・ランプ」に顔つきが変わったのもこのときだ。ジュネーブ・サロンは春に行われ、メーカーは各国ディーラーのオーダーを受注して、夏以降に翌年モデルとして生産が始まるのが通例なので、300SLロードスターは1958~1963年生産とされる。
裕次郎さんが自らの300SLを「顔面変更」した理由は?
昭和の大スター、石原裕次郎さんがギャラを丸々とつぎ込んでまで300SLを手に入れたのは昭和38年(1958年)。中古車として手に入れたことは有名だが、当時すでに300SL自体は縦目顔に進化していたころだった。海外でもときどき、フロントをクラッシュしたガルウイングが、年式をまたいで縦長ユーロライト仕様に変更された例はあるが、裕次郎号の「3・せ3838」の個体は、当時の輸入元「ウエスタン自動車」に依頼し、縦目に替えさせたといわれている。それが確かに、前後関係で考えても整合性のある話だが、残るナゾは、なぜ裕次郎さんが300SLに縦目を欲したか? ということだ。
おそらくは、300SLRやウーレンハウト・クーペの、丸ライトだが縦長プレクシグラス付きのフロントマスクのイメージが大スターの念頭にあって、より新しいロードスターモデルの縦長ライト顔に、よりそちらに近い印象を覚えたためではないか? 後の映画「栄光への5000キロ」での510ブルや、小暮課長のガゼール・オープンなど、演じている間もカーガイだったボス(ビッグをつけなくてもボスは元々ビッグなもの)のプライベートだと思えば、腑落ちするのではないか。
ノーマルの300SLガルウイング・クーペは近年、オークションでも1億円近い高値で取引されることすらあるが、「ツルシのまんま」を拒否した昭和の大スターのやんちゃぶり、そして生涯大事にしたというエピソードが加われば、それどころでは済まない価値がある。タイムレスに輝き続けるものとは、そういうものなのだろう。