冷戦時代の幻のスポーツカー「シュコダ1100 OHC」
日本に未上陸の欧州自動車メーカーというのは多々ある。あのフォルクスワーゲン・グループ傘下にありながら、スペイン発の「セアト」と並んで正式に輸入されたことがないのが、チェコ共和国の「シュコダ」だ。
チェコの老舗「シュコダ」は今年でモータースポーツ125周年
シュコダはじつは欧州では超名門。軍需物資や工作機械、機関車のメーカーとしては19世紀半ばから存在し、自動車以前から社史が始まる点はフランスの「プジョー」にちょっと似ている。ナポレオン戦争後のチェコは早々に工業国として発達し、とくにドイツ語圏とゆかりの深かったボヘミア地方がシュコダの本拠地で、あのフェルディナント・ポルシェ博士もオーストリア領だったボヘミアの出身だった。
シュコダの自動車部門が始まったのは1919年、「シトロエン」と同じ年だ。当初トラックを造っていたが、フランスの「イスパノ・スイザ」からライセンス生産の権利を購入し、地元の四輪&二輪メーカー、「ローリン&クレメント」を買収して規模を拡大した。現在も本社のあるムラダー・ボレスラフは後者の跡地で、シュコダがモータースポーツへの挑戦125周年を今年祝うのは、ローリン&クレメントが1907年から地元のヒルクライムやドイツの都市間レースで活躍したからだ。
かつて「モンテカルロ」や「ル・マン」にも参戦していた
第一次大戦後のチェコで、シュコダのライバルはモラヴィア地方の自動車メーカーである「タトラ」だった。タトラは空冷フラットエンジンのRRレイアウトや、4輪独立懸架サスを先駆けていた。シュコダは1936年に大衆車「ポピュラー・スポルト」をモンテカルロ・ラリーに送り込むなど、耐久性を証明するモータースポーツに好んで参戦した。
だが第二次大戦で工場は焼き尽くされ、ソビエト連邦占領下の共産体制によりシュコダは国有化される。そんな暗い時代にも関わらず、シュコダは1950年ル・マン24時間にシュコダ・スポルトで参戦。1953年には当時の政府によってシュコダは一時「スターリン」と名称変更されたが、工場労働者の強硬な反対によって改名を免れた。