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バカッ速だけど真っ直ぐ走らせるのが困難! 衝撃の気むずかし屋スーパーカー「ランチア・ストラトス」とは

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TEXT: 原田 了(HARADA Ryo)  PHOTO: 原田 了/FCA

3年連続でWRC王者に輝いたストラトス

 フェラーリ製のV6エンジンをミッドシップに搭載したスーパースポーツカーでいながら、ランチア・ストラトスはランボルギーニ・カウンタックとフェラーリ512BBを2トップとするスーパーカーとは異なった立ち位置となっていました。

 その最大の理由は単なるスーパーカーではなく、モータースポーツ、とくにラリーの最高峰WRCを戦うために生まれたファイターだったからでしょうか。今回は、1973年から始まったWRCを1974年から1976年まで3連覇、「真っ直ぐ走るのは困難!」とさえ形容されたランチア・ストラトスを振り返ります。

WRC専用マシンが誕生した“裏事情”

 ランチア・ストラトスの祖となったのは、ベルトーネが1970年のトリノ・ショーに出展したコンセプトカー、ストラトスHFゼロでした。ランチア・フルビアの1.6L V4エンジンや足まわりなどのコンポーネントを使用していたストラトスHFゼロを、ベルトーネはランチアに新たなスポーツカーとして提案したのです。ランチア・ストラトスHFゼロ

 新進メーカーのランボルギーニは、1966年にミウラを登場させ、スポーツカーのトップメーカー、フェラーリも1960年代後半にはディーノ206GTをリリースするなど、ミッドエンジンのスポーツカーも巷で見受けるようになっていました。ですが、まだスーパーカーはブームとなる直前のタイミングでしたから、ベルトーネには先見の明があったということでしょうか。

 しかしランチアは当初、スポーツカーよりもフルビアに代わって世界ラリー選手権(WRC)で活躍するラリー・マシンを用意するのが急務の課題とあって、新時代のスポーツカーを目指したストラトスHFゼロは、とても魅力あるプロポーザルという訳ではありませんでした。

 しかし、このプランに興味を持つ人物がいました。ランチアでラリーのワークスチームを率いていたチェザーレ・フィオリオにとっては、ストラトスHFゼロのパッケージがとても魅力的に映ったのです。そこで、ミッドシップによる高い運動性能に加えて整備性と信頼性を確保することを条件にストラトスの実車化を進めるよう、ランチアの経営陣に進言しています。

開発にはふたりのキーパーソンを指名したランチア

 当時のWRCの主役はグループ4でした。ホモロゲーション(車両公認)を得るためには連続する24カ月間に400台生産される必要がありますが、ランチア経営陣はこれを十分に可能と判断。こうしてランチアのフルビアHFに代わって、次期ラリーマシンとなるストラトスのプロジェクトがスタートすることになりました。

 開発に当たってランチアはふたりのキーパーソンを指名しています。かつて、ランボルギーニ・ミウラで共同作業の経験があったマルチェロ・ガンディーニとジャンパオロ・ダラーラです。デザインを担当したガンディーには当時、ベルトーネのチーフデザイナーを務めていましたし、一方のシャシーを担当したダラーラは1970年にデ・トマソを退社していて1972年にレーシングカーコンストラクターのダラーラ・アウトモビーリを創設するまでフリーランスとして活動中でした。

 立場は違っていましたが、ともに新進気鋭のふたりは自らが持つ感性と技術理論を結実させ、ラリーマシンと呼ぶにふさわしいランチア・ストラトスを完成させています。ちなみにこのコンビはこの前後にランボルギーニ・ハラマやフィアットX1/9 でも名コンビぶりを発揮しています。ランボルギーニ・ハラマ

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