クルマを文化する
REAL CAR CULTURE

AUTO MESSE WEB

クルマを文化する
REAL CAR CULTURE

AUTO MESSE WEB(オートメッセウェブ)

  • TOP
  • CLASSIC
  • 本物は焼失した1台のみ! 謎と伝説にまみれた「ランボルギーニ・イオタ」とは
CLASSIC
share:

本物は焼失した1台のみ! 謎と伝説にまみれた「ランボルギーニ・イオタ」とは

投稿日:

TEXT: 高桑秀典(TAKAKUWA Hidenori)  PHOTO: 高桑秀典/LAMBORGHINI

ホンモノは存在しない幻の1台

 数あるランボルギーニのなかで、もっともミステリアスな存在となっているのが「イオタ」だ。往時にアウトモビリ・ランボルギーニ S.p.Aのメカニック兼テストドライバーとして活躍していたボブ・ウォレスが、FIA付則J項のツーリングカー/GTカー・カテゴリーに参戦するべくミウラをレース仕様にモディファイ。そのマシンこそ「J=イオタ」なのだが、1971年生まれの筆者がそのような概要を知ったのは中学生になってからだった。

 幼稚園児や小学校低学年ぐらいの子どもには、その魅力を理解するのが難しいクルマだったといっていい。 イオタが誕生した経緯には諸説あるが、ここでは筆者が知っている知識を書かせていただく。

通常業務以外の時間で製作されていたイオタ

 ランボルギーニの創業者であるフェルッチオ・ランボルギーニはレースに興味がなかった(資金的な問題から断念していたともいわれる)。ボブ・ウォレスは通常業務以外の時間にイオタの製作を開始した。1969年の話だった。ランボルギーニのテストドライバーだったボブ・ウォレス

 ミウラを改良する必要性を当時のチーフエンジニアであるパオロ・スタンツァーニも理解していたといわれ、ボブ・ウォレスはミウラをベースとしてコツコツ造っていたようだ。とはいえ、ミウラから流用されたのはルーフだけで、そのほかの部分は新規だったといわれている。ミウラよりもサイドシルが太かったらしいが、これはガソリンが減ったときのフロントの重量変化をできるだけ抑える目的でフロントセクション内の燃料タンクを小さくし、サイドシル内にも燃料タンクを配したからだ。そう、ボブ・ウォレスは本気だったのだ。ランボルギーニのチーフエンジニアだった、パオロスタンツァー二

 ボディのシルエットこそミウラと似ているが、埋め込み式のヘッドライトを採用していたこともあり、そのディテールを細かく見ていくとミウラと異なる部分がたくさんある。インテリアもミウラのそれとは印象が異なるものだった。

 最高出力440psを発生したV型12気筒エンジンもミウラ用がベースだったが、シリンダーヘッド、プロフィールが異なるカムシャフト、ハイコンプレッションを可能にしたピストンなど、さまざまな専用パーツが使用されている。潤滑方式は安定してオイルを供給できるドライサンプが採用されたので、まさにイオタスペシャルと呼べるものだった。

売却後にクラッシュし炎上

 テスト車両として製作されたが、じつはワンオフのレーシングカーであったイオタは、ランボルギーニの社是によりレースに参戦することはなかった。数万kmの走行実験を行ったあとにシャシーナンバー#4683が与えられて、ジェリーノ・ジェリーニという人に売却。その後、ヴァルテル・ロンキという人を経て、カーディーラーを経営していたエンリコ・パゾリーニに譲渡された。ランボルギーニ・イオタ

 パゾリーニは顧客のベルポナーという人に売却するためにイオタを購入したらしいが、1971年4月28日にミラノの東にあるブレシアの、まだ使用されていない道路でのテスト走行中にクラッシュ。パゾリーニと助手席に乗っていた同ディーラーのジョパンニ・ペデリネリは無事だったもののイオタは炎上してしまった。

 230km/h前後で走行中、5速にシフトアップしようとした瞬間にノーズが浮き上がり、原形をとどめないほどの大クラッシュだったことで修復不可能と判断された。たった1台しか存在しなかったイオタはスクラップとなってしまったのだ。焼失を免れたエンジンはブロックだけ再利用され、オイルの潤滑方式がウェットサンプに改良されたのちにシャシーナンバー#4878のミウラに搭載されたそうだ。

12

 

 

 

 

 

 

 

RECOMMEND

MEDIA CONTENTS

WEB CONTENTS

 

 

 

 

 

 

 

人気記事ランキング

MEDIA CONTENTS

WEB CONTENTS

AMW SPECIAL CONTENTS