国産名車セダンを所有した元オーナーだけが知るプリメーラとランエボの共通点とは
筆者は初代ピアッツァにはじまり、R32型スカイラインや輸入車ではE36・E46型BMW3シリーズなどを所有してきたが、途中、P10型の初代プリメーラ(以下、P10プリメーラ)やランサーエボリューション3(以下、ランエボ3)を愛車として持つ機会があり、充実した愛車遍歴による充実のカーライフをいまも送っている。そして、歴代の愛車を振り返ると意外にも似た共通点があることに気が付く。そこでR32スカイラインGT-RやNSXほどではないにしても、それでも日本が誇るべき名車と断言できるP10プリメーラとランエボ3を回顧しながら、独断と偏見になるが筆者が思う名車たる所以をレポートしたい。
抜群の居住性とユーティリティ性を兼ね備えた初代プリメーラ
1989年10月に発売されたP10プリメーラは、「パッケージング」という言葉を広く認知させた一台だ。バブル期には3代目アコードや初代&2代目ソアラなど、背が低い4ドアセダンや4ドアハードトップが流行するなか、限られた全長のなかで広い室内とトランクの確保を重視して開発された、乗員優先のセダンであった。
当時、日産の顔であったブルーバードが同門のライバルであり、この時代は販売チャネルが複数あったことから、ブルーバードとプリメーラの販売店は異なるわけだが、より選択肢を増やして真のライバルであるトヨタやホンダが占めるシェアをくってやろうという意気込みが感じられた。
当時の話になるが、「10」から始まる型式はかつてのチェリーやオースターのリベンジの意味もあるという噂もあったほどで、それほどプリメーラは日産にとっての意欲作だったと考えられる。
プリメーラは欧州車に引けをとらないハンドリングマシンとして誕生
そしてP10プリメーラを語るうえで切り離せないのが「901運動」だ。この運動は、日産が1990年代に技術面や走りでナンバー1になろうという活動を続けた成果によって、日産車の一部のモデルでは欧州車に負けないハンドリングを実現させた。
サスペンションアームの数が多ければ走りが自ずと良くなるとは一概には言えないのだが、P10プリメーラはフロントサスにマルチリンクを採用。一見、凡庸なセダンのようにも見えるクルマでありながら、スポーティな走りも評価された。また背の高さ(全高・室内高)もありトランクルームも欧州のプレミアムモデルのようにヒンジを持たないダンパー式を採用。当時の国産モデルはトーションバー式でアームがトランク内に張り出すことで上面まで荷物が積めないクルマも多かったが、その心配もなく、積載性や実用性も誇るスポーツセダンというキャラクターで大ヒットすることになる。
また、エンジンは発売当初から2L直4DOHCのSR20DE型エンジンを搭載。ハイオク仕様でライバルを上まわる150ps/19.0kg-mの高性能なスペックによって、5速MT車が4速AT車の販売比率に近づくことがあったほど、走りにこだわる多くのユーザーから支持されることになった。
さらに1992年9月のマイナーチェンジで、フルフレックスショックアブソーバを採用し、走りと乗り心地を両立。走りにこだわる硬派なユーザーに限らず、数多くのユーザーから愛されることになる。
モデル末期にはコストダウンによって魅力が半減することに
限られたコンパクトなボディ(全長4400mm×全幅1695mm×全高1385mm)ながら背が高くて荷物が沢山積めるスペースを持つ。そこだけ見れば、軽自動車に革新をもたらした初代ワゴンRにも通じるだろうし、欧州車のようにトランクオープナーを使わなくても車外からトランクが開けられる機構こそ持たないものの、広い開口部と90度以上開く設計のトランクドアの実用性は格段に優れていた。つまり使い勝手が高いうえに走りにも一家言ある4ドアスポーツセダンとして、P10プリメーラは国産Dセグメントの頂点に君臨したといっていいほどの性能を誇った。
残念なことがあったとすれば、モデル末期に入ると装備が削られていったこと。エアバッグやエアコンの代替フロンの採用は時代の要請なのだが、バブルが崩壊していたことからコストダウンに迫られ、ウインドウスイッチやグローブボックスの照明が省かれ、同じP10型でも年式によってはデビュー当初のモデルと同様に、満足度の高い性能がそのまま味わえたかどうかには疑問符が付く。
全高は初代プリメーラより高く快適な居住性も自慢だった
そしてスポーツセダンと言えば三菱ランサーエボリューションを忘れてはならない。筆者はP10プリメーラの次の愛車としてCE9A型ランサーエボリューション3(以下、ランエボ3)を所有したのだが、このモデルも4ドアセダンとしてのユーティリティ性に優れていた。
全長こそP10プリメーラよりも小さいのだが(全長4310 mm×全幅1695mm×全高1420mm)、こちらも背が高くて居住性は十分に広いスペースが取られていた。それは前席だけではなく、後席頭上のルーフ高もしっかり確保されており、レアなケースではあるが後席でヘルメットを被っていてもゆとりのある頭上空間が備えられていた。
また、運転時の取り回しの良さや安全性につながる視認性についてもランエボ3は優れていた。それはクルマ自体のボディと屋根をつなぐ支柱であるAピラーやCピラーに関係してくるのだが、Aピラーはドライバーの視界を妨げない形状と太さに設計され、真ん中のBピラーは太すぎれば乗り降りの邪魔になってしまう。だが、ドアの開口面積が比較的広く取られていたこともあり、多少太くても問題はなかった。そしてCピラーの位置は後席乗員が煩わしく感じなければ良く(運転者から見て斜め後方の視界が狭いのは問題だが)、ランエボ3にはこうしたウィークポイントは一切なかったため、市街地での安全性と視界の確保という自動車の運転において、大切なポイントがしっかり抑えられていたと言える。
ベース車が持つ優れたパッケージングの良さをそのまま踏襲
もちろんプリメーラのようにパッケージングが突出して優れていたとまでは言えないが、P10プリメーラからランエボ3に乗り替えたとき、普段後席に乗る乗員から不満が聞かされることはなかった。もちろん後席のシート形状は、通常のランサーに対して特別なものではなく高級とは決して言えない仕立て。だが、ベースとなるランサーセダン自体の空間設計がしっかりしていたからだろう。ランエボ3もドライバーはもちろん乗員の居住性も配慮された4ドアセダンだった。
とくにしっかりと厚みのある後席の座面と背もたれの快適性、そして後席前の足もとスペースは175cmの筆者が座ってもガニ股のように大きく足を開くことなく座ることができ、三菱が長年に渡り4ドアセダンを作り続けてきた知見が集約されていることが感じられる。
つまりはランエボはただ速い4ドアセダンではなく、セダンとしての居住性とトランクの積載性を犠牲にすることなく、ハイパーと言えるほどバカッ速な4ドアセダンを誕生させたのだ。もちろんWRCをはじめとしたラリー競技を戦うためのモデルであったわけだが、いわゆる大衆車のランサーをベースにエボリューションモデルを生み出し、WRCでも販売面でも偉大な結果を残すことになった。
おそらく第2世代のランエボ以降(エボⅣ以降)は、エボリューションモデルの開発も視野に入っていたのだろうから第一世代の知見を組み込めたのだろう。だが、初代ランエボが売れなかったらランエボ2、ランエボ3は生まれなかったはずで、ベースモデルの4代目ランサーの開発初期段階ではエボリューションモデルのリリースは見込んでいなかったのではないだろうか。
ルームランプすらもユーザーフレンドリーだった第1世代のランエボ
P10プリメーラとランエボ3はメーカーも違うし、開発から発売に至るまでのアプローチやかけるコストも違ったはず。当時は『安くて壊れない』が魅力のひとつであった日本車にあって、日産と三菱のそれぞれの開発陣による豊富な知見と自動車メーカーとして、長年に渡り積み上げきたクルマづくりの哲学を惜しみなく投入。それにより、実用的なセダンに走りというスパイスを効かせた希代のスポーツセダンを誕生させることができたのではないか。
こうした作り手の思想や思いをユーザーが感じ取り、自動車雑誌やウェブメディアなどで語り継がれ、P10プリメーラとランエボは名車としていまも多くのクルマフリークの思い出として君臨している。
余談になるが、ランエボの第1世代のルームランプは前後席の中間にある普通のランプなのだが、他社のような小さいスイッチが付いているのではなく、レンズカバー自体をスライドさせることで常時点灯や消灯、ドアの開閉による点灯が選べるようになっていた。この機能は運転席から目視せずに手を伸ばすだけで点灯・消灯ができた優れた設計であった。
もちろん、当時筆者はそこもお気に入りポイントであり、細かな部分にもドライバー&パッセンジャーファーストが追求され、そこも含めて自慢の愛車であった。ただし、ランエボが第2世代に生まれ変わると残念ながらこの機能は廃止され、それ以降のランエボには小さなスイッチが採用されることになる。当時の開発陣にその理由を伺うと「全体がスライドするのが安っぽい」という声があり、新たにスイッチが設けられたそうだ。
P10プリメーラとランエボシリーズは、ともに販売面でのヒットがあったからこそ変化をもたらし、進化してきたと言える。この日本が誇るべき2台のスポーツセダンを愛車にすることができ、少し大げさに聞こえるかもしれないが、日本のモノづくりの偉大さにほんの少し触れることができたように感じている。それもこれも、バブル末期にP10プリメーラとランエボ3が誕生したからにほかならない。