ポルシェのロードモデルとしては初のターボエンジン搭載車だった
近年では環境性能が優先的に求められるようになり、ダウンサイジング・ターボが主流になってきています。かつてはハイパワーを絞り出すための装置として、ターボチャージャーが用いられることが、少なくありませんでした。
その典型的な例が、スーパーカー御三家の1台、ポルシェ930ターボでした。実際に、4L以上の大排気量V12を搭載するフェラーリやランボルギーニに対して、3Lのフラット6+ターボで立ち向かっていった930ターボの人気は、トップ2に勝るとも劣らないものがありました。今回は930ターボを振り返ります。
ポルシェのワークスが開発したターボ
今やスポーツカーのアイコン的存在となったポルシェ911ですが、ここに至るまでには3人の技術者が開発し熟成させてきた3つのクルマが関わっています。先ずはフェルディナント・ポルシェ博士が産み出したフォルクスワーゲン・タイプⅠ、いわゆるVWビートルです。
そして、そのビートルをベースに、ポルシェ博士の息子であるフェルディナント・アントン・エルンスト・ポルシェ、愛称“フェリー”がスポーツカーの356を設計しています。さらに“フェリーの長男”、つまりは博士の孫であるフェルディナント・アレクサンダー・ポルシェ、愛称“ブッツィー”が、その356を発展させて911が誕生しています。
つまりポルシェ家が3代にわたって産み出した名車がスポーツカーのグランドマークのひとつとされているポルシェ911という訳です。フォルクス・ワーゲン・タイプIでは強制空冷のプッシュロッド水平対向4気筒で排気量1Lだったものが、最新モデルの992型911GT3では水冷のツインカム(4カムシャフト)水平対向6気筒で排気量は4Lまで発展。
最高出力も25psから510psへと20倍以上ものパワーアップを果たしています。ここに至るまで、さまざまな“新技術”が投入されてきましたが、なかでも出力アップに大きく貢献していたのがターボチャージャーでした。
ポルシェがターボチャージャーの研究を始めたのは1960年代も終盤になってから。市販車両の先行開発とレース用にも並行して開発が進められていました。市販車両の先行開発に関しては多くが明らかにされてないのですが、ポルシェと言えども楽な開発ではなかったようです。
レースで熟成を進めたターボチャージャー
一方、レースに関しても、決して簡単な開発ではなかったと思いますが、こちらの方が少し早く結果に結びついています。
具体的に見ていくと、ポルシェが王者に君臨していた国際メーカー選手権が、1972年からは世界メーカー選手権へとタイトル名が変わるとともに排気量が5Lまで許されていたスポーツカーが締め出されました。排気量3L以下のグループ6に限定されたために、闘いから締め出されてしまった917の、新たな活躍の場として北米を転戦していた「スポーツカー選手権」、「カナディアン-アメリカン・チャレンジカップ(通称“Can-Am”)」を選んだポルシェ。それまでにもスポット的に参戦していて、7Lのアメリカンパワーに5Lのエンジンで戦いを挑んでいて、そのパワー差は実感していました。
そこで本格参戦となった1972年シーズンにターボチャージャーを装着したマシン=917/10Kを投入することになったのです。参戦はロジャー・ペンスキーが指揮を執る恰好でしたが、実質的にはポルシェ・ワークスがマシンを開発していました。
水平対向6気筒を2基直列にした水平対向12気筒エンジンは、当時の資料では再呼応出力850psとされ、ライバルたちの8.2~8.4LのプッシュロッドV8が捻り出す725ps以上を凌駕していましたが、アクセルレスポンスでは大きく後れを取っていたようです。
しかしレースは走る実験室。闘いを重ねながらトライ&エラーを繰り返して開発が進み、そのシーズン中に大きく進化したこともあって全9戦中5勝を挙げたジョージ・フォルマーがチャンピオンに輝いています。
1973年も、ペンスキーのチームからアップデートした917/30で参戦したマーク・ダナヒューが全8戦中6勝を挙げてチャンプに輝きました。残る2戦もフォルマーとそのチームメイトであるチャーリー・ケンプが優勝していましたから、ポルシェ917は9戦全勝。圧倒的なパワーに加えて信頼性も、課題とされていたドライバビリティも完璧な仕上がりを見せていたのでしょう。