日本のモータースポーツ発展に貢献したレジェンドのひとり
3月16日、元2輪の世界GPライダーで、4輪に転向後は日産のワークスドライバーとして活躍した、高橋国光さんが亡くなった。享年82歳。ご冥福をお祈りします。
高橋国光さん、いやここでは国さんと呼ばせてもらうことにして、その名は、日産ワークス時代から印象が強くなっている。そして振り返る格好で、2輪時代の活躍もわかってきた。
日産ワークス時代には“無冠の帝王”と呼ばれ、三羽ガラスの北野 元さんや黒澤元治さんが日本グランプリなどのビッグレースで優勝を飾っていくのに対して、その速さと強さは誰もが認めるところだったが、何故かタイトルには縁がなかった。けれどもドライバーの評価としては高いままで、誰もがその存在を認めていた。
高校生のころからモータースポーツ専門誌の地方レポーターとしてサーキット通いを続けていて、初めて国さんと会話したのは大学で6回目の新学期を迎えた春先のことだった。
西日本サーキット(のちに美祢サーキットと改名)で初のF2レースが開催され、そのメインのレースは今宮 純さんがレポートを担当していて、学生地方レポーターはサポートレースの担当だった。土曜日の予選終了後、今宮さんと国さんをホテルまで送っていくことになり、今宮さんに勧められてMy Civicを国さんにドライブしてもらったことがあった。ガチガチに緊張していたから、会話の内容などは覚えていないのだが、「ホンダらしく気持ちのいいエンジンだね」と褒めてもらったことだけは強烈に記憶している。
話は40年ほど時空を飛び越す。富士スピードウェイで開催されたSUPER GTを取材に行く際、東名でゆったり走っているホンダ・レジェンドを追い越したら、じつはそれが国さんのクルマだったことが、のちにパドックで談笑していて発覚。ビートをかっ飛ばしていたことを知られ赤面至極だったが、国さんは「気持ちよかったでしょう、ホンダの小さいクルマって楽しいよね」といつもの笑顔で話してくれ、気恥ずかしさも少し薄れていった。
もちろん、プライベートのクルマ事情だけでなく、本業の方でも大変お世話になった。何度も何度も、もう数えきれないくらい取材させてもらったが、いつも笑顔で対応してくれて、取材後には、こういう大人になりたいなぁ、と想うのが常だった。
まだ一報しか聞いてなくて、詳細な情報もないままに、国さんの追悼記を書いている自分を情けないとは思うのだが、国さんだったら「頑張って仕事するんだよ」と優しくはっぱをかけてもらえそうな気がする。国さん、本当にお疲れさまでした。これからも、雲の上から見守っていてください。