伝統のV8エンジンを搭載したグランツーリスモの集大成
マセラティは高性能スポーツカーでよく知られたイタリアのメーカーです。なかでも、1959年に登場した5000GT由来のV8エンジンをミッドシップに搭載したボーラが、スーパーカー・ブーマーの“少年たち”には人気がありました。
ですが、マセラティといえばフロントにV8エンジンを搭載したフラッグップのモデル「5000GT」の直接的な後継モデル、ギブリ~カムシンの流れが本流とされています。今回は生産台数430台に留まったものの、伝統のV8エンジンを搭載したグランツーリスモの集大成とも言うべきカムシンを振り返ります。
フロントエンジンのV8スポーツクーペという本流を歩んだカムシン
アルフィエーリ・マセラティがエットーレとエルネストのふたりの弟とともに興した自動車工房「Officine Alfieri Maserati」。初期のころは市販車のレーシングチューンをメイン主業としていましたが、やがてレーシングカーのコンストラクターとなり、最終的にはスポーツカーメーカーへと発展していきました。
“発展”とするのが相応しいかは意見の分かれるところですが、それはともかくマセラティが造り出すレーシングカーはフォーミュラにせよレーシングスポーツにせよ、多くのモデルが大活躍を見せていました。しかし、レーシングカーの販売でレースの活動費総てを賄うことが難しいのは明らかで、やがてモデナの実業家、アドルフ・オルシが経営に携わるようになっていきました。そして営業方針を転換し、レーシングカーをベースに高性能なスポーツカーを製作販売することを、営業活動の基本に置くことになりました。
それまでにも少数のロードゴーイングモデルを製作したことはありましたが、本格的な量販モデルとして初めてリリースされたのは1958年に登場した3500GTでした。カロッツェリア・トゥーリングが手掛けたボディに搭載されていたのは、レーシングスポーツカーの300Sに搭載されていた直6ツインカム・ユニットをベースに3.5Lまで排気量を拡大したパワーユニット。カムをギヤドライブからチェーンドライブに変更するなどチューンし直した、ロードゴーイング仕様でした。
翌1959年にはロードゴーイングのフラッグシップとなる5000GTがデビューしています。これも3500GTと同様にレースで活躍していたレーシングスポーツカーの450SのV8ツインカム(4カム)エンジンを、5Lまで拡大。ロードゴーイング仕様へとチューニングし直したユニットを搭載したモデルで、1号車は3500GTと基本的に共通のシャシーに、カロッツェリア・トゥーリングが手掛けたボディを架装して、ペルシャの王子に納車されています。
そして5000GTに続くモデルがマセラティのフラッグシップを務めることになります。5000GTの後継モデルとなったのは1966年に登場したギブリ。当時はカロッツェリア・ギアに在籍していたジョルジェット・ジウジアーロのデザインで、ほぼ同時期に販売されていたフェラーリ・デイトナのライバルとしても知られています。
そのギブリの後継モデルとなったのが、本編の主人公。1973年に登場し、マセラティの本流を歩むことになったマセラティ・カムシンでした。
マルチェロ・ガンディーニが手掛けた最初のマセラティ
マセラティ・カムシンのデザインを手掛けたのは、当時ジウジアーロの後任としてベルトーネのチーフデザイナーに招かれていたマルチェロ・ガンディーニでした。彼がマセラティを手掛けるのは、このときが初めてのこと。
鋭角的に張り出したサイドのエッジが、フロントノーズからせり上がるようにカーブを描きながら、テールエンドまで伸びるウエストラインが特徴。全体的にシャープでかっちりした印象を与える、彼らしいデザインに仕上がっていました。
そしてサイドのエッジが張り出していたことでリヤのトレッドも60mm拡幅でき、結果的に+2シートの幅も拡大できたという副産物もあったようです。もっとも特徴的だったのはリヤエンドの処理で、エンドパネルにガラスを用いてテールランプも、そのガラスパネルにはめ込むというもの。
独特の存在感を放っているのと同時に、後方視界を確保する意味でも大きなメリットとなっていました。ただし、リヤのカウルで開閉できるのが上面のガラス部分だけとなり、大きな荷物の出し入れは、少してこずってしまうというデメリットもありました。
また特徴的と言えば、ボンネットに設けられた熱気抜きのルーバーが左右非対称にボンネットにはめ込まれていたのもとても印象的でした。何よりも先代モデルのギブリと同様に、狭いながらも+2シートが用意されているのもグランツーリスモならではの特徴となっていました。
エンジンはマセラティがお得意としていた、5000GTの流れを汲むV8。ギブリの後期モデルで採用されていたのと同じ4.9L仕様で、最高出力は320psとギブリの後期モデル(335ps)からは引き下げられていました。その反面、トルクが引き上げられていて、より使いやすく再チューニングされていたようです。シャーシはスチール製のモノコックに鋼管で組んだサブフレームが組み合わせていました。
サスペンションは前後ともにコイルスプリングで吊ったダブルウィッシュボーンで、4輪独立懸架となり、リヤがリーフスプリングでリジッドアクスルを吊った先代のギブリに比べ、大きく進化したものとなっていました。
そもそもはシトロエンSM用エンジン開発のクライアントで、カムシンが世に出るころまでにはマセラティの経営権をも手に入れていたシトロエンの影響も大きかったようです。ステアリングからブレーキやクラッチ、果てはシートのハイトアジャストやリトラクタブルヘッドライトの開閉まで、すべてにシトロエンの油圧サーボ・システムを採用していました。とくにセルフセンタリング式のステアリングは、過敏に過ぎると不評も多かったようです。
それが原因なのかはわかりませんが、1983年までの9年間のモデルライフのなかで販売台数は430台に留まっていました。1989年には新開発の32バルブ3.2LのV8を搭載したシャマルが、後継として名乗りを挙げ、さらに3200GT、マセラティ・クーペと新しいフラッグシップが誕生することになりました。
モダンなルックスと充分なパフォーマンスはマセラティの新たなフラッグシップに相応しいものであることは充分に理解できるのですが、ギブリやカムシンから漂っていたマセラティの“薫り”が消えてしまったように思えるのは気のせいでしょうか?