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庶民でもギリ手が出せる「ガチ」のスーパーカー! ロータス・エスプリとは

大陸スーパーカーほど高騰しておらず3桁万円で手に入れられる

 映画『007』シリーズに登場する「ボンドカー」と言えば「アストンマーティンDB5」が有名ですが、同じ英国製の「ロータス・エスプリ」も第10作『007私を愛したスパイ』、第12作『007ユア・アイズ・オンリー』と2度登場。同じモデル(第12作ではエスプリターボ)が複数回にわたって登場するのは、別格のアストンマーティンを除くとロータス・エスプリが唯一です。それだけ愛されていた証拠でしょうか。

 今回は21世紀まで生産が続けられ、現在でも購入できる「大穴」スーパーカーとされているロータス・エスプリを振り返ります。

文字通りのバックヤードビルダーでスタートしたロータス

 ロータスを創設したのはコーリン・チャップマン。フルネームで表すとアンソニー・コーリン・ブルース・チャップマンとなり、ロータスのエンブレムには今も、「LOTUS」のロゴの上に彼のイニシャルである「A.C.B.C.」が重ねられています。

 企業としての設立はまだ少し先になりますが、彼がロータスの第一歩を踏み出したのはロンドン大学工学部の学生だったころ。副業として中古車販売を手掛けていましたが、どうしても売りさばけなかった1台を改造、自らのレーシングカーにしてしまいます。その改造は友人と一緒に、ガールフレンドの実家にあったガレージで行っていました。まさに青春ドラマの1シーンのようですが、こうしてできあがったレーシングカーが、チャップマン自身のドライブで好成績を挙げたことで話題になり、買い手も現れた、ということです。ここから彼の、事業としてのクルマづくりが始まりました。

レーシングカー「マーク6」からビジネスを開始

 そして彼は企業としてのロータスをスタートさせ、ガールフレンドだったヘイゼル・ウイリアムズと結婚することになりました。ロータスにとって市販モデル……結果的に販売できたのではなく、販売することを目的に設計開発された初のクルマとなったのは、1954年に登場した「マーク6」でした。搭載するエンジンとして「フォード・コンサル」用のユニットに目を付けたチャップマンですが、フォードにエンジン単体での購入を申し込むも、無名の会社にエンジン単体で売り渡すことはできない、と断られてしまいます。

 そこでチャップマンは一計を案じました。フォードのディーラーを1軒ずつ回り、フォード・コンサルのエンジンパーツを1点ずつ買い求めていったのです。こうしてエンジン単体を1基仕上げることができ、マーク6のプロトタイプが完成しています。そしてマーク6の量販モデルは、キット販売分も含めて100台以上を売り上げることになり、ロータス社の経営を安定させる大きな要因となっていきました。

ライトウェイト・スポーツカーの名作を続々と生み出す

 レーシングカーの生産販売と並行して、ロータスが力を入れていたもうひとつの営業の柱がロードゴーイング・スポーツカーの生産販売でした。こちらの第1号となったのは1957年のロンドン・モーターショーで、クラブマン・レーサーの「セブン」と同時にデビューした「エリート」でした。セブンもロードゴーイング・スポーツととらえることもできますが、やはりこちらはクラブマン・レーサーとして、公道も走れるレーシングカーと考えるのが一般的と思われます。

 その一方でエリートはレースでも走れるGTスポーツといったところで、ロータスとして初のクローズドボディが与えられています。しかもそのボディ/モノコックはファイバーグラス(ガラス繊維強化プラスチック=FRP)で成形されるという、革新的なアイデアが盛り込まれていました。

 ちなみに、ロータスのタイプナンバーで言うと、エリートはナンバー14でしたが、セブンはそのままタイプナンバー7を表していて、その先代モデルとも言うべきマーク6との間にはタイプナンバー8から13までが、ナンバー7より先行してデビューしています。これはマーク6(タイプナンバー6)の後継モデル用に、わざわざ7を空き番にしていた、との説も聞こえてきますが、真偽のほどは定かではないようです。ともかくこれ以降、エリートから「エラン」、「ヨーロッパ」といったライトウェイト・スポーツが次々とデビューをしていきました。

高級GTカー路線へと舵を切りエスプリが登場

 フォードから、ツーリングカーレースのベースモデルとして「コンサル・コーティナ」のチューニングを依頼されたロータスは、エランに搭載してデビューさせたばかりの1.6L直4ツインカム・ユニットを2ドアセダンにスワップし、「ロータス・コーティナ」としてデビューさせています。こちらは営業的には大いにプラスに働きましたが、エリート(初代のタイプナンバー14)が経営的には失敗に終わったことで、ロータスは新しい経営方針を打ち出すことになりました。

 それが高級GTカー路線。ライトウェイトスポーツカーから豪華なスーパースポーツカーへと大きくシフトしていったのです。その大役を任されたモデルが「3E」と呼ばれる、スポーツワゴン風4シーターハッチバックの「エリート」(Elite=2代目となるタイプ75)と、2ドアファストバックの「エクラ」(Eclat=タイプ76)、そしてミッドシップ2シーターの「エスプリ」(Esprit=タイプ79)でした。

 この3兄弟は同じエンジン(2L直列4気筒ツインカム16バルブの「タイプ907」。最高出力は160ps)を搭載していましたが、エリートとエクラがコンベンショナルなフロントエンジンだったのに対して、エスプリはミッドシップレイアウトを採用していました。またエリートやエクラはパッケージング的にもコンサバな4シーターや2+2でしたから、イタリアンのエキゾチックなライバルに立ち向かうには役不足でした。ですがエスプリの方はミッドエンジンで、それが直4の2Lでパワーが160psと非力なことを除けば、充分勝負できるキャラクターを備えていました。

ジウジアーロとチャップマン、ふたりの天才の競演

 そんなエスプリですが、デザインを手掛けたのはジョルジェット・ジウジアーロ率いる「イタルデザイン」でした。これも驚くようなエピソードですが、1971年のジュネーブショーでジウジアーロと面識を得たチャップマンが彼を口説いてデザインを依頼したというのです。そして研究用にロータス・ヨーロッパのシャシー・コンポーネントを提供するようにとのジウジアーロからのリクエストに対して、チャップマンはヨーロッパ用の1.6Lに備えたシャシーではなく2Lのタイプ907エンジンに合わせたシャシーを送ったといいます。

 そのシャシーをベースにジウジアーロが描いたイメージスケッチを見て、チャップマンはその場でGOサインを出したと伝えられています。まさに天才同士の一瞬のひらめきで誕生した、エスプリならではのエピソードですね。

 ともかくエスプリは、1976年に登場した「S1」を手始めに78年のマイナーチェンジで「S2」に移行。さらに80年には「タイプ910」と呼ばれる2173cc直4ツインカム16バルブをターボで武装、最高出力も210psに引き上げたモデルが登場。93年にはインタークーラーを装着して300psを超えるハイパワーを手に入れ、さらに96年には350psのV8ツインターボ・エンジンを搭載した、文字通りのスーパーカーに昇華しています。そして改良を重ねながら2004年まで生産が続けられ、28年間で合計1万675台が生産されています。

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