セダンの新ジャンルを切り開き、時代の寵児となった初代
プレジデントなどショーファーカーを除けば存在しなかった3ナンバー専用設計ボディ、ハイソカーブームとバブル景気に後押しされたユーザーの高級志向、これまでのセダンの常識を打ち破る3L V6ツインカムターボ(255ps/35.5kg-m)のパフォーマンス。そして、欧米のセダンとも異なるジャパンオリジナルの流麗なスタイリング、税制改革(自動車税の細分化)による維持費の軽減など、これまでになかった新たなジャンルを切り開くとともに、時代の波にも乗って大ヒットを収めた初代シーマ。まさにセダン界の寵児であった。
バブル期の潤沢な資金を投入し初代を大きく凌駕した2代目
そのバトンを受け継いだ2代目が登場するのは、バブル末期の1991年。大ブレイクのあとのモデルチェンジは、多くの車種が攻めではなく守り。デザインはキープコンセプトで、先代で指摘された部分に手を加えるのが常套手段だ。2代目もその流れでモデルチェンジをしたのだが、うかれ景気にのっかってか、いろいろと欲張った。
初代より車体が大きくなり、懸案だった後席の居住性も改善。足まわりもリヤサスに日産901活動の成果であるマルチリンクが採用され、高級セダンに相応しい走りを手に入れている。そのほか、革新の油圧アクティブサスをオプション設定し、内装も本木目フィニッシャーや質の高い本革シートを採用するなど、クオリティは1ランクも2ランクもアップ。クルマとしてのできは初代を大きく凌駕していた。
ただ、いいクルマが売れるとは限らないのは世の常。初代とは逆で時代に乗り切れず、販売台数は徐々に下降線をたどっている(今、中古車マーケットで残存率は低い)。では、なぜ2代目は失敗したのか、それは日産の戦略も大いに影響している。
英国高級車の流れを組むデザインは日本では受け入れられず
ひとつ目はデザイン。クリーンで伸びやかなハードトップスタイルが好評であった初代に対して、2代目はフロントフェイスこそ初代の面影を残すが、保守的で重厚感のあるデザインに変更。しかも、メルセデス・ベンツのような押し出しの強い威風堂々としたものではなく、当時のジャガーやディムラーをイメージさせるやや逆スラントした顔に、より尻下がりになったテールという優雅なプロポーションだった。
当時の国内メーカーは新たなセダン像を模索し、英国やフランスの流れを組んだデザインを採用するクルマは多かったが、ことごとく販売は苦戦。シーマもその例に漏れなかった。上位機種のインフィニティQ45が初代シーマのようなスタイリッシュ系デザイン、下のセドリック/グロリアが存在感ある王道スタイルを採用したことも、2代目シーマのデザインに影響したかもしれない。
インフィニティQ45の登場がシーマの市場価値を大きく下げた
もうひとつはインフィニティQ45の登場だ。初代はプレジデントを除けば日産のラインアップにおいて一番エライセダンであったが、2代目がデビューしたときには上にインフィニティQ45が存在した。時代はバブル期であったから、お金持ちは当然一番高いセダンが欲しい。となれば、シーマはその選択肢から外れる。
また、インフィニティQ45があるため、ヒエラルキー的に排気量もスペック(270ps/37.8kg-m)も抑えられた。V8 4.1Lの排気量は、初代3Lターボの動力性能をNAで上まわるために導き出された数字であり、セルシオやV8クラウンの4Lを上まわるという理由で採用されたそうだが、買い手の心理としては上位に4.5Lがあるなら、それが欲しい。しかも当時の国内上限である280psならばなおさらだ。
個人的には従来の3L V6ターボを熟成し、4.1Lと同様のスペックまでパフォーマンスを高めて搭載したほうがシーマらしかったと思う。なお、1993年のマイナーチェンジで3L V6ターボは復活している。
さまざまな名車が生まれたバブル期において2代目は埋もれてしまった
つまり、2代目はすべてが中途半端に見えてしまったことが販売低迷の原因。初代デビュー時と異なり、すでにさまざまな名車が登場していたこともあり、飛び抜けた個性(クルマとしての切り札)を失った2代目シーマは埋もれてしまった。インフィニティQ45を海外専用車として販売し、シーマを国内トップに据え、280psの4.5L V8を搭載していたなら、これほどの低迷はなかっただろう。まさに時代に翻弄された1台といえる。