グラベルや氷雪路だけでなくターマックでもオールマイティに
初代アウディ・クワトロの開発を統括していたのは、ポルシェから移籍してきたフェルディナント・ピエヒでした。言うまでもなくフェルディナント・ポルシェ博士の孫で、ポルシェ時代には数々のレーシングマシンを手掛けていました。
そんな彼だけに、アウディ・クワトロの実力を鍛えながら、同時に世間に広くアピールするために迷うことなく選んだのが、WRCへの参戦でした。デビューシーズンとなった1981年は、WRCで言えばグループ4が主役となる最後のシーズンでした。1982年からはグループBに主役が交代し、移行期間として82年シーズンはグループ4とグループBが混走。1983年からはグループ4は参加できなくなるというレギュレーションでした。
アウディ・クワトロのデビューは、そんな端境期だったこともありましたが、まずは順調に参戦計画がスタートし、1981年シーズンの開幕戦にベテランのハンヌ・ミッコラと女性ドライバーのミッシェル・ムートンのドライブでエントリー。
ムートンは早々にリタイアしてしまいましたが、ミッコラはスタートから快調に飛ばしていきます。そしてモンテカルロに入る前の6つのSSすべてでトップタイムをマークし、早くも2位以下に6分の大差をつけていました。
デビュー戦で他を圧倒して独走優勝! 関係者がそう思い始めたところでミッコラが痛恨のミス。橋の欄干にクラッシュしてすべては水の泡となってしまいました。しかしアウディ・クワトロの速さは紛れもないもので、第2戦のスウェディッシュではミッコラが汚名挽回してクワトロを初優勝に導くと、第10戦のサンレモではムートンが、自身初、そして女性ドライバーとしても初優勝を飾っています。
ちなみにこの優勝は、WRC史上、女性ドライバーとしての初制覇でもありました。1982年と1984年にはマニュファクチャラータイトルに輝くと同時に1983年にはミッコラが、1984年にはスティグ・ブロンクビストがドライバーチャンピオンに輝いています。この間にスポーツ・クワトロ、1985年にはスポーツ・クワトロS1へと進化を遂げていました。
ただしクワトロ・シリーズが猛威を振るっていたのは1984年までで、1985年にはヴァルター・ロールがサンレモで勝った1勝のみ。そして結果的にそれが、WRCにおけるアウディの最後の勝利となってしまいました。
最大の理由は強力なライバルが登場したこと。それはプジョーの205ターボ16やランチアのデルタS4といった最新のクルマたちでした。彼らのパッケージは、クワトロと同様に4WDシステムを組み込んだうえに、エンジンをミッドシップに搭載するという新たなステージに突入していました。
クワトロはかつて1983年のシーズンに、4WDの威力をふんだんに発揮しながらも、ミッドシップの後輪駆動だったランチア・ラリー037にマニュファクチャラータイトルを奪われたことがありました。縦置きエンジンの前輪駆動がベースとなっていたクワトロでは、ノーズヘビーはハンドリングで大きな足枷になっていましたから、4WDシステムとミッドエンジンの組み合わせに対しては、成す術がなかったのでしょう。
さらにグループBのその先に企画されていたグループSが、相次いだアクシデントを理由にキャンセルされ、グループB自体もWRCからは除外されて1987年シーズンからは主役がグループAへと移ることになりました。
そんな状況では、大きくてフロントの重いクワトロは活躍の場がなくなってしまい、アウディはWRCから撤退。アメリカのパイクスピーク・ヒルクライムにスポーツ・クワトロS1で挑戦したり、SCCAのトランザム選手権やIMSA-GTOに200クワトロに参戦していました。クワトロは、ここでも見事な活躍を見せており、4WDの効力が確かなことをアピールすることになりました。