いま見るとスマートでスタイリッシュなセダンが多かった
1960年代はステキな時代だったと思う。もちろん筆者はまだ幼少の身、朝起きて新聞に目を通したりNHKのニュースを緑茶を飲みながらTVでチェックしていた訳ではないから、いかにも見てきたようには書けない。だが、1964年の東海道新幹線の開通は、それを筆者は絵に描いて幼稚園の講堂に貼り出されたり、前回の東京オリンピックも聖火が灯される瞬間は、カメラが取り付けてあったらしい長く伸ばされたロッドが聖火台の背後で何本もユラユラ揺れて映っていた映像の記憶は鮮明だ。
首都高速の開通(1962年)、名神高速の開通(1963年)もその頃。高度経済成長期、所得倍増政策、モータリゼーションといった語句はその頃を語るときに必ず登場する。当時について書き記した資料によれば、1961年から1970年の10年間で、日本の乗用車生産はじつに12.7倍という急成長を遂げたという。
さて、そんな1960年代の日本車というと、どのクルマも意欲的なクルマばかり。この時代に誕生したクルマは、いかにもメーカーの情熱が込められた、いわばドリームカーだった。
そんななかでちょっと注目だったのは、当時のセダンだ。“当時は気付かなかったが今あらためて見直すと素敵だったじゃないかと思えるセダン”と言えば、より感覚に近い。クーペでもスポーツカーではない、いわば何の変哲もないはずのセダンながら、よくよく思い返せばじつにスマートでスタイリッシュだったセダンというのがあった。
スズキ・フロンテ800
肌感覚などといいながら筆者の勝手な見解で選ばせていただくと、まず思い浮かぶのがスズキ・フロンテ800(1965年)だ。
1963年の第10回全日本自動車ショーと翌1946年の第11回目東京モーターショー(この回から呼称が変わった)で公開・出品され、1965年12月に発売。2サイクルの3気筒785ccエンジンを横置きで搭載したFF車で、4速コラムシフトを採用し、当時の車両価格は54.5万円。ヨーロッパ調の優雅なスタイルが印象的だったが(子どもの目には外車のように映った)、販売上は成功作とはいえず、1969年には生産を終了している。
ダイハツ・コンパーノ・ベルリーナ
もう1台、1963年登場のダイハツ・コンパーノ・ベルリーナも忘れられないセダンだ。このクルマはヨーロッパ調どころか、イタリアのカロッツェリア、ビニヤーレが手がけたワゴンをベースに仕立てられた。
当時のカタログには“ほとんどのクルマが似たりよったりのシルエットを追い求めるなかでひとり華麗な曲線を誇るベルリーナ”とある。1000ccで2ドアと4ドアの設定。ひと足先に登場したワゴン(とバン)やスパイダーもあった。当時、筆者が通っていた小学校でもクリームイエローの4ドアに乗って通勤していた先生がおられたが、「なんか洒落てるなぁ」と思っていたことを思い出す。
日野コンテッサ
カロッツェリア繋がりで話を進めると、日野コンテッサ(1964年)も魅力的な存在だった。ジョヴァンニ・ミケロッティ作というスタイリングは、イタリア、ベルギーのエレガンスコンクールでの3年連続受賞(クーペを入れると通算4回受賞)など賞典にも輝いたほど。
日野ルノー、初代コンテッサ譲りのリヤエンジンのユニークなエンジニアリングも特徴のクルマだった。トヨタとの提携直前、3年余と生産期間も短かく、他車に比べ街なかで見かける機会も少ない希少なクルマだっただけに、クーペとともにかえって存在感があった。